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ソマティック・マーカー仮説と意思決定について/感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ
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情動と脳科学といえば、エモーショナル・ブレイン―情動の脳科学という本があり、個人的にも読むだろう候補なんだけれども、ふと感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザが目に入ったので、ぱらぱらっと読んだ。
まず、筆者のダマシオが本書で語る情動や感情という言葉は一般的・辞書的に考えられている(急激で強いものは情動、そうでないものは感情)ものと違って、下記のようなものらしい、
p4
それらは「生命調整」という、有機体のもっとも重要な、そしてもっとも基本的なプロセスの中でいわば因果的につながっていて、情動は「身体」という劇場で、感情は「心」という劇場でそれぞれ演じられる。たとえば、われわれが何か恐ろしい光景を目にして恐れの「感情」を経験する場合を考えてみる。その場合、体が硬直する、心臓がドキドキする、といった特有の身体的変化が生じるが,身体的変化として表出した生命調整のプロセスが、ダマシオの言う「情動」(この場合は「恐れの情動」)だ。一方、脳には、いま身体がどういう状態にあるか刻一刻詳細に報告され、脳のしかるべき部分に対応する「身体マップ」が形成されている。そしてわれわれが、その身体マップをもとに、ある限度を超えて身体的変化が生じたことを感じるとき、われわれは「恐れの情動」を経験することになる。
続いて、「ここで重要なのは、一般的に考えられている順序とは逆で、『怖いと感じるから、その結果として身体が硬直したり心臓がドキドキしたりする』のではなく、『怖いものを見て特有の身体的変化が生じるから、「そのあとに」怖さを感じる』のである。」
という趣旨のことが書いてあるが、「感情より身体的な反応が先にくる」という説はここ数年けっこう聞くようになっていると感じるのだが、と思って出版年を確認したら2005年に出版された本だったので、この本が原書で書かれた当時はあまり語られてなかった仮説なのかもしれないと思うなど。
ところで、先の引用に書かれている「身体マップ」といえば、脳の中の身体地図―ボディ・マップのおかげで、たいていのことがうまくいくわけという本もあり、これを読むことにより言ってることの理解が深まるのかも。
本題に戻って、生命の維持のために有機体には「ホメオスタシス調整」という機能が備わっているが、ダマシオはその進化的にもっとも高い(新しい)レベルの調整機能が感情であり、そのすぐ下にあるものが情動であると考えている。これはつまり、ゾウリムシなどの単細胞生物にも見られるダマシオの言う身体的な情動反応から、高等動物や人間に見られる感情反応まで、それらは生命維持のためのホメオスタシス調整機能として働いているということになり、情動や感情の役割について考える際の基盤になる。
そうして、こういった役割から推論してダマシオが生み出したのが「ソマティック・マーカー仮説」で、引用すると次のようなものである。
p7
われわれの日常生活は、「さて、つぎはどうするべきか?」という、考えられる多数の選択オプションの中から妥当なものを一つだけ選択する「意志決定」の連続からなっている。普通、最善の意志決定は「合理的、理性的」になされると考えられるが、ダマシオはそうは考えない。もしわれわれが多数のオプションを一つひとつ合理的に検討し、そうやって最善の一つを選択しているのだとすると、あまりにも時間がかかりすぎるからだ。実生活において妥当な選択が比較的短時間でなされるのは、特定のオプションを頭に浮かべると、たとえかすかではあっても体が反応し、その結果たとえば「不快な」感情が生じ、そのためそのオプションを選択するのをやめ、こうしたことがつぎつぎと起きて、多数のオプションがあっという間に二つ、三つのオプションまで絞り込まれるからであり、合理的思考が働くのはそのあとのこと、とダマシオは考えている
意志決定の際の、合理的な判断が下される前に感情的な判断がなされる時点においてその基準になるのは過去の経験で、次のような過程で形成される。
p8
過去にわれわれがオプションXを選択して悪い結果Yがもたらされ、そのために不快な身体状態が引き起こされたとすると、この経験的な結びつきは前頭前皮質に記憶されているので、後日、われわれがオプションXに再度身をさらすとか結果Yについて考えると、その不快な身体状態が自動的に再現されるからだという。
ソマティック(somatic)には身体のという意味があり、Somatic markerを訳すと過去の選択から引き起こされた感情が身体(somatic)にmarker(標識)として埋め込まれるぐらいの意味なんだろうと思う。ソマティックマーカー仮説について、日本語の情報はあまりweb上に存在していないけど、英語情報ならwikipediaのSomatic markers hypothesisなどがあり、進化論的な証拠についてやソマティックマーカー仮説に関する実験のアイオワ・ギャンブリング課題(Iowa Gambling Task)が載っている。
さて、ここまで書いたことについて簡単にまとめると、ホメオスタシス調整としての機能を持つ身体的反応としての「情動」と心の反応としての「感情」があり、情動反応によって生み出される感情は、一度起こった身体的な反応に対する快/不快を記憶し、次回同様な身体的な決定事項の際に、感情が呼び起こされ意志決定の際の重要な基準になるということになる。
ところで、合理的・感情的な意思決定について考える際に、最近では行動経済学のフレームークが使われることが多いけれども、行動経済学以前の前提である感情を無視して人は合理的な選択をするものだという前提を現実の個人に当てはめて考えてみると、人は集めなければならない情報の多さに辟易してまうだろう。だから、擬似的に合理的に選択するための基準として心理学用語としてのヒューリスティック(暗黙のうちに用いている簡便な解法や法則)を用いることがあるが、ソマティックマーカーを用いた意思決定はこういったヒューリスティックの中の「感情ヒューリスティック」に類似しているなと思った。
心理学と意思決定を絡めた本で言えば、例えば印南 一路氏のすぐれた意思決定―判断と選択の心理学があり、他に類書はないかなと思って探すと、行動意思決定論―経済行動の心理学という本が中々面白そうで興味をかき立てたてられる。
とまぁ、色々と話題が飛んだわけだけれども、本日の情報探索行動はこの辺にて。感情/情動/脳/意思決定を高いレベルで結びつけたら、日常的な範囲においても色々と応用できて普段の行動過程について再考できるので面白かったりする。
600万人の女性に支持されるクックパッドというビジネスと集合知的なコンテンツビジネス
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・抜粋した文章:600万人の女性に支持されるクックパッドというビジネス - 涼ペディア
利用者の分布を見ると、その殆どを25〜50歳の年齢の女性で占めているというクックパッド。人気の秘密は、技術力の高さを駆使して、例えば、表示速度が早いなどのユーザビリティが良い点や、表示方法を工夫し作りたいと思う料理を見つけやすいといったレシピの検索性の良さなどが本書で挙げられているが、私が目を引いたのはクックパッドにレシピが投稿される理由が書かれた下記の部分だ。
p15
もちろん世の中には料理が好きな人はたくさんいるわけだが、ではなぜ彼女たちは料理が好きなのかといえば、やはり食べてくれる人が「おいしい」といってくれるからだ。
(中略)
だが、実際にはどうだろう。「おいしい」といってもらえる機会は、日常の生活でどれほどあるだろう。家庭で家族のために料理を作る。それを食べる家族が「おいしい」と毎日きちんと反応してくれるかどうか。友だちを招いてパーティをし友達に料理をふるまう機会もある。しかし、そんなことが年に何度あるだろう。
自分の料理の「おいしい」を、自分のレシピという形で、世の中の大勢の人たちに写真付きで見せることができる。“リアル”な日常ではありえない料理を作る楽しみを、クックパッドなら実現できる、ということだ。
つまり、クックパッドのメインコンテンツとなる投稿レシピは何をモチベーションとして日々投稿されているのかというと、日常ではなかなか満たされることのない自分が作った料理に対する反応を、クックパッドでレシピを公開し、他のユーザーからレスポンスをもらうことで満たそうとしているからだと言えるらしい。
狭い日常ではなかなか得られない体験をインターネットを通すことで提供しようとする方法はネットの特性を上手に使っていて良い方法だと思う。というか、寧ろ当たり前すぎて普段は特に意識していないのかもしれない。だから意識的に、この方法をベースにして他にも何か応用されている分野があるのではないかと考えてみる。
例えば、自分の制作物をみんなに評価してもらいたいという観点から見るとニコニコ動画やpixivはその典型であるし、Amazonで楽天で商品レビューを投稿する人も同様に大勢の人に意見を発信することで、金銭は得られないが満足感を得ているものと考えられる。
こうした満足感の集積は、まさに「集合知」ができ上がる過程だと言える。人々がウェブに積極的に投稿したくなるような物語を考え、その受け皿となる仕組みを作ることは、この種のコンテンツビジネスを成功させるうえで一つのパターン化された考え方であろう。
Twitterに関する雑感と読書日記 楽しみの社会学/「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ
何かを書いて公表する以上、他人にどう読まれるかを全く気にしていないということはないのだけれど、何か文章を書くことが自分のためにもなるならば、それはTwitter的なフローな場に書くよりもよりストックな場に書いた方が良いし、それと主にブログで書くよりTwitterで書く方が合っているのはどういった人たちなのかについて考えると、あまりフォロワー数が多くない人にとっては交流の場として、そしてある程度フォロワー数が多くなるとそれプラス宣伝の場として使う人たちではないかと思うので、そのどちらでもなければブログで書けばいいんじゃないのと思った次第。
もっとも、別に交流が嫌いとかそういうわけではないのだけれどあの140字という限られた字数の中で交流しようとするのはそもそも誤解を生じさせやすく、きっちりと意見を書こうにもあまりにも窮屈なのでいまいちreplyを飛ばそうという気も失せてしまう。
とはいえ、別にブログとTwitterのどちらを使うかという二元論で語る気もないので、またTwitterに面白さを見いだせたら使う頻度が高まるかもねという程度のお話であり、特にどこかに固執する必要もないとは思っているし、そういった態度は発想も固まりやすく危険だ。
楽しみの社会学
人間の動機づけに関するほとんどの理論は、生理的に楽しい状態は限られたものでしかない、という仮定にたつ「欠乏モデル」に基づいている。このモデルによれば、行動とは単に基本的欲求の充足へと志向する先天的、あるいは後天的な一連の反応にしかすぎない。 (中略) フロイトにとってリビドーは、すべての快楽の源泉であった。しかし、社会生活が要求するものと、リビドー的欲望とが葛藤するところから、文明にとって不満は宿命的なものである。 (中略) しかし、遊びの研究は、動機づけに関する異なった図式を提起する。人は閉鎖モデルが予言する、いかなる報酬も生まない数多くの活動に没頭している人びとに出会い、やがて、ほとんどどのような目的や経験も楽しいものになり得ることを認識しはじめる。
この辺の理論に関しては不勉強なのですけど、「欠乏モデル」とフロイトのリビドーのつながりはあぁそういうことねと思い、それと同時に何か欠乏していないと快楽が生じないのは直感的にずれてるよなと思った記述。
「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ
普段、ニュースで目にする様々な社会調査に対してどういった観点から疑っていけばよいのかという視点を提供してくれる良書。自分も全ての社会調査に対して適切に誤っている点を指摘できる自信はないが、それ以上に調査結果を鵜呑みにしてしまう人が多く、まっとうな方法で調査した結果を公表するよりも「ウソ」の調査結果を公表することが得だと分かっていて意識的にそうしている人が多数存在していると思うと何ともいえない気分になる。
そしてその際に取れる態度は、自分も知識を付けそういった悪用する流れに乗って社会調査を利用しようとする態度とできるだけ多くの人に調査結果に対するリテラシーを啓蒙して悪用しても得にならないように努めようという態度があると思うのだけれど、どちら側に立つかは個人の価値観やらどうするのが自分にとって得かなど色んな思惑が働くのだろう。こういった行動に関してはゲーム理論で分析できそうな気がする。
それにしても、税金を無駄遣いにしてまで自分達の都合のいいような調査をしようというのは何ともひどいものだ。「カネ」が動く状況では恣意的な思惑が多分に働いている。
苦境を乗り越えられる人間と乗り越えられない人間の差
もし疑うなら、ツイてる!等の斎藤一人氏の書籍や404 Blog Not Foundさんの赤木智弘たちに足りないもの - 書評 - 若者を見殺しにする国を読んでみると良いですよ。または、人が集まってコメントが盛んなブログとあまり人気のない愚痴ばかりのブログを比べながら眺めてみると良いです。
そして、成功者のふくよかな顔と苦しんでいる人の貧相な顔を思い起こしてみながら少し考えてみてください。
どちらの人間に豊かなアイデアが浮かぶと思いますか?そしてどちらの人間に人が集まりお金が集まると思いますか?
それでも、いやいやそんな単純な事じゃないんだと思っている人やそんな笑っている余裕なんて無いんだという人は残念ですけどご愁傷様だと思います。
逆に、あぁそういう事かと気付いた人は、明るく他人に慕われるような人間を目指してみると良いです。最初、成果が出なくてやめたくなっても続けるんです間違いなく人生は好転しますから。
今現在苦しんでいる人がいたらこの記事を元に考え方を変えて好転に向かってくれればいいですね。
もしかして偽善に見えるかもしれないですけど、暗くなりがちな世の中こういう事を伝達していくのが実はかなり大事な事なんじゃないかなと最近思っているんですよ。
斎藤一人氏と堀江貴文氏の著作から見る人生論
先日私はふと思うところがあって、日本で一番税金を納めている斎藤一人氏の著作を古本屋に買いに行きました。そして、私は古本屋に行くと必ず他にも自分が今必要としている本があるかを探してみないと気が済まないと人間なので、斎藤一人氏程ではないにしてもあの若さにしてかなりのお金を稼いでいる堀江貴文氏の本を買って二人の考え方の違いを比べてみようと思ったのです。
そして、ついさっき私が買った3冊を読了した結果、根本的な考え方が全然違いますねという事が分かってしまいました。
まず斎藤一人氏の基本的なスタンスは、お客さんを楽しませて自分も楽しんで生きていくにはどうすればいいのだろうと心の底から考え続けているのです。そして、彼の口癖に本の題名にもなっている「ツイてる」という言葉があります。これはどういう事かというと、いかなる困難に出会ってもそれは自分を成長させてくれる事だから「ツイてる」し、彼が高額納税者番付一位になったのも「ツイてる」からなんです。つまり、何があっても「ツイてる」おかげなのです。
斎藤一人 変な人が書いた驚くほどツイてる話 (知的生きかた文庫)
これは、私レベルの解釈で恐縮なのですが、つまり何があってもネガティブな思考に陥らない考え方の一つなのではないかと思います。実際、世の中で起こる事全てが自分にとって「ツイてる」と思考実験してみると、楽しなってきてパワーに溢れ活動力がみなぎって来る感じが何となくでも分かってくると思います。
そして、彼のもう一つのスタンスに「敵を作らない」という考え方があります。仮に自分と違う考え方の人が現れたときには、それを頭ごなしに否定してしまうと「敵」になってしまいますから、まず相手の言う事を「分かるよ」と言って理解してあげる。そして自分の考え方をやんわりと愛のある言い方で述べる。これを実践すれば人と競争する事無く自分の廻りは協力してくれる見方だらけでどんどん上手い方向に転んでいくという事です。そして商売の本質はそういうことだとも仰っています。
一方、堀江貴文氏の書籍からはそういった人を楽しませて、自分も楽しむという方法を突き詰めていくという考え方は感じられなかったです。確かに、彼が起こした事業の多くは皆の役に立ち、彼に富が集まる事になったのですが、2〜3年前ウンザリするほどニュースで報じられていた様に、彼もだんだんと「儲かる手法」を突き詰めていくと言う考え方に陥ってしまい結局、敵を相当数作って逮捕されると言う事態にまで進展してしまいました。
結局そういった人間にとって本質的ではない「マネーゲーム」的手法は、確かに即効性はあるのかもしれませんが、人の役には大して立っていないので長くは続かないと言う事なのでしょう。それでも、堀江貴文氏が残した功績は一般人よりも遥かに大きいものだとは思いますが。
100億稼ぐ仕事術 (SB文庫)
一方の斎藤一人氏は人間にとって本質的だと思われる、自分が楽しみ相手も楽しませる役立つ商品を世に送り出すことで、高額納税者番付に12年連続で載り続け、果ては日本一税金を納めるまでになったのです。
確かに、斎藤一人氏と堀江貴文氏の著作を比べると論理的に物を突き詰めて考えていて、文章内での矛盾も少ないなのは堀江貴文氏の著作のほうなのですが、結局商売が上手だったり人生を豊かに生きるためにはそういう事が必要なのでは無く、もっと根源的な楽しくて役立つという事を突き詰めていく事が必要なのでしょう。
やや文章に宗教色が見られる斎藤一人氏の著作を敬遠する人も多いでしょうが(実際、私も論理敵に考えるのが好きだったので、もったいない事に数年間敬遠していました)、さすがに日本一税金を納めているだけあって、そこには人間として上手くいく生き方が書かれています。今現在、人生や仕事に生き詰まっている人はぜひ読んでみるのがいいと思います。完璧に悩みが消えないかもしれませんが、そのためのヒントは間違いなく書かれていますから。
国家の品格/藤原正彦
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批判意見も肯定意見も出尽くしてるだろうから今更感が大いにあるのだが、わたしは大衆的に話題になっている時に乗っかるのが情緒的に(笑)嫌なタイプだから(天邪鬼?)かなり時期外れの今書評でもしてみよう。
論理それ自体にパラドクスが存在しまた論理には誤謬も多く含んでいる事は既存の事実だけれども、それを知った上でも論理絶対主義に陥っている人には再確認の意味を生じ得るであろう内容が第二章では展開されている。しかもこういった論理絶対タイプは結構自分で気付いていない事が多く、ある前提から結論まで辿る作業においてその各道筋が起こる大体の確率を計算していくと50%にも満たないない事は多々あるものであり、またその前提が間違っている事も多い。
さて、本書は「武士道」という情緒や形を根底に論理を組み立てるのが良いという主張なのだがわたし個人としては「大筋は」同意出来る。(内容自体は一方の主張(武士道精神)の良い点とそれに対する主張(合理的精神)の悪い点の羅列に終始して大して議論が進んでいないのでいまいちだが)この「大筋は」というのはその情緒や形の大事さを取り上げるにしても武士道よりもう少しましな思想があるのではなかろうかという事である。「ならぬことはならぬのです」なんていう言葉が通用するのはせめて十代の間だけで、著者も大事だとしているある程度の論理を身につければ、なんでだめなのか?と考える事は当然である。確かに情緒というか論理とはまた違った思想も大事だがわたしは寧ろ小さい頃から論理的な思考を身に付けさせた方が自分で考える力が発達し良いと思う。つまり、著者としては論理<情緒なのだろうが、論理>情緒でないとただ感覚的に物事を考える人間が多すぎてそもそも話しにならない場合が多い。
さらに、結局の結論が「数学者」として論理もへったくれもない過去正当化装置(少なくともわたしにはそう見える)としての懐古主義的な「武士道」というのはお粗末極まり無いのではなかろうか。(自分がやってきた事全否定というのはある意味凄い)というのも、藤原氏も世界を飛び回ってきた中で様々な考え方に触れてきた事だろう、それでも武士道的な情緒を前提に置くことが最善だと思ったという事は、その根底には「ナショナリズム」と「懐古主義」の影がちらついている。
ところでわたしは本書を読むより先にネットで大体の批判を眺めたのだが、本書を読んだ後に批判点を見ると本質を突いていない批判が多々存在する。本質を突いていない理由というのは、まず第一にいちいち部分的な批判をするだけで主張の本質を批判出来ていない、第二に本書の内容が論理を全否定して形や情緒のみを肯定していると思い込んでいる事から批判しているもの(つまりちゃんと読めていない)等々お粗末な批判ばかりで、ではなぜこの様に「便乗的」な批判をしてしまうかというとおそらく本書が大衆にも受けてベストセラーになったというところにポイントがあるのではないだろうか。というのも、本書を無理やりにでも批判して普段本も読まないような大衆とは俺は違うぞとでも示したい、それこそ本書で著者が言及している「自己肯定のための論理」に近い精神があるような気がしてならない。そういった人はもう一度本書の「大意」をしっかり捉えなおすべきである。
参考批判