哲学
哲学のすすめ/梅原 猛・ 橋本 峰雄・藤沢 令夫 NO,1
採点
90点
項目
1、哲学を考える
2、哲学の問うもの
3、哲学の歩み
4、文献解題
1、哲学を考える
そもそも、哲学には3つの伝統が存在する。すなわち、ギリシア古代の哲学の諸学派、仏教やジャイナ教を含むインド古代の諸学派、そして中国の春秋戦国時代の諸学派(諸子百家)である。そして、時代を下って十五、六世紀までの世界史を考えるとこれら三つの思想圏はだいたい同格の洗練度を示したと言える。さらに、それぞれ三つの古代哲学は独自の論理体系を築き上げてもいるのである。
また、特に「西洋哲学」というのは特に中世哲学に始まる。その成立過程は「キリスト教」という神話を受け入れ、それを合理化・世俗化する努力において「哲学を」生むものであった。その過程において科学を生み出したが、これは信仰との緊張を生む事になった。
ところで、そもそも哲学の課題は「世界認識と善の選択との統一が、自由な、広い選択によって掴まれる事」であり、現在のように哲学の分化がひどくなっていてもその基本命題に変わりはない。
2、哲学の問うもの
哲学が問うものにおいては、生と死・存在と価値・認識と論理・言葉と大きく4つ存在する。
生と死
すなわち、いかに生き、いかに死ぬべきかは哲学が最初に問うとともに、最後に問うべき問いである。
そもそも、ヨーロッパ文明においてはギリシア文明とヘブライ文明という二つの大きな柱が存在する。そこにおいては、二つの不死のドラマが存在する。そのドラマの主人公はそれぞれ、ソクラテスとイエス・キリストである。ソクラテスにおいては、不死の魂・理性を信じ抜き、キリストにおいては復活の思想が起こることとなる。
その後、近代文明においてデカルトにより、理性への信頼及び物質への信頼により死を克服することとなる。しかし、死を考慮しない文明は果たして健全だと言えるだろうか?生と死の概念を喪失する事でおどろくべき殺戮が行われてこなかったか?永遠の理性を失った現代において、生と死の根本を問う必要に哲学は迫られている。
存在と価値
哲学というのは伝統的、に存在と価値との理論的統一とも言える。そこでは、価値から存在へと一元的な統一を求めるもの、逆に存在から価値への一元的統一を求めるもの、存在と価値との二元論がある。
価値から存在へと一元的な統一を求めるものは、主に古代中世の哲学に代表され、おおまかに言えばギリシア哲学は全ての存在は善であり、キリスト教においては全ての存在は悪(罪)であるという価値づけから存在に統一される。
ところで、価値により存在を統一する近世最大の試みをしたヘーゲルは、その方法において弁証法を用いた。しかし結局は、この論理的難点が存在する弁証法にかかずらわりすぎたと言えるだろう。
在在から価値への一元的統一を求めるものは、主に近世以後の哲学で顕著になった。これは、法(規範)を事実問題から、つまり価値を存在から基礎付けるものである。これはホッブスによる自然法思想に結びついている。
これにおいても、ヒュームやカントらにより、事実問題から権利問題を導くのはおかしいという批判を受け、存在と価値の分離が主張されることとなった。
存在と価値との二元論は近世以後の哲学を真に特徴付ける。というのも近世以降の哲学の根本的問題は科学と倫理の対立である。こういった意味での存在と価値の対立をカント・ホッブス・ルソーが確立した。
以上の三つは順に、客観的理想主義・自然主義・自由の理想主義となるが、もう一つ自然主義と自由の理想主義における中間の哲学者バートランド・ラッセルが存在する。
そして、我々はいずれかの世界観を選ばなければならない。そこにおいて、世界観を吟味・正当化する事こそ哲学の途である。
哲学のすすめ/梅原 猛・ 橋本 峰雄・藤沢 令夫 NO,2 へ続く
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