哲学・心理
哲学のすすめ/梅原 猛・ 橋本 峰雄・藤沢 令夫 NO,4
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90点
項目
1、哲学を考える
2、哲学の問うもの
3、哲学の歩み
4、文献解題
哲学のすすめ/梅原 猛・ 橋本 峰雄・藤沢 令夫 NO,3 の続き
現代の哲学〜体系の否定とさまざまの課題〜
ヘーゲルの死後、彼のような体系的な哲学は寧ろ、批判されることとなる。それは、諸科学の発展に応じて思想の態度や学問に対する考え方が変貌したからである。その様な体系を解きほぐした思想家たちを「青年ヘーゲル派」と呼ぶが、その中でもフォイエルバッハの哲学の根深さは群を抜いている。
彼の功績は、哲学をば神的絶対者を原理とし存在する学から人間の学にひきずり下ろしたところにある。だから、彼は新しい哲学を「人間学」と呼ぶ。それは、「人間を越えたもの」への従属から自由になった「人間のことば」と訳すべきものである。
ところで、社会的人間の現実学を展開したのはマルクスである。彼の主義哲学として挙げられる特性は、「弁証法的唯物論」すなわち自然・歴史・社会を物質的過程として弁証法的に展開するものであった。また、彼は歴史の運動とは基本的に内容(生産力)の発展に応じ形式(生産関係)が変革されてきたことだと言い、これを「唯物史観」と呼ぶ。さらに「資本論」を著し、現代社会の内的矛盾を原理的に論証した。
自分が有限者であること、自分が単独者であること、この自覚を差し置いていったい主体性とはなんでありうるか。ゼーレン・キュルケゴールはこの問いから出発する。彼の「実在」としての立場からの主体性の論理により、質としての個人的・論理的究明をする立場は、バルト・ブルンナー等の弁証法神学やヤスパース・ハイデッガー・サルトルに受けとられた。特にサルトルの実存主義思想はきわめて社会的に積極的な態度であった。
生の哲学と言えば、「ツアラツストラ」を著したニーチェがいる。彼の思想は、ソクラテス以来の形而上学をすべて生を否定する思想すなわち「ニヒリズム」とし、このニヒリズムに徹する事で生の否定から肯定へと価値を転化させることを説く。
また、歴史上の生を自分の生で捉え、現在の自分が歴史に意味を与えるのだという、歴史学を精神科学に意味づける事をデュルタイにおいて確立し、進化論を主体化して自発的生命こそが真の実在であるという、魅力的な生の形而上学をベルグソンが示た。また、この根源的な生へ帰還して再生を帰すべきこの指針は広くヨーロッパに影響を及ぼし今日に至る。
19世紀中頃になると「カントに帰れ」という新カント派がおこることとなり、その中でもリッケルトは、自然科学と文化科学の学問的性格を明確にしようとした。その影響を受けつつ、社会科学的認識の客観性を追及して、歴史・社会の認識方法論を立て、自分も経済史・経済社会学・政治史等で実り多い成果を挙げたマックス・ウェーバーは今日にも強い影響を持つ。
また、プラグマティズムを哲学として確立させた人がパースであり「概念の対象」が、「実践的影響」を持つと考え得る「効果」が問題であった。その後、ジェームズ・デューイへと発展しアメリカの社会生活の調整に大いに役立つ事となる。
その後、科学哲学は多岐にわたって発展するが、近年では例えばポパー・エイヤーの諸著作を見ても、つねに哲学を学問論的に再検討すべく要請を続けている。
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哲学のすすめ/梅原 猛・ 橋本 峰雄・藤沢 令夫 NO,3
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1、哲学を考える
2、哲学の問うもの
3、哲学の歩み
4、文献解題
哲学のすすめ/梅原 猛・ 橋本 峰雄・藤沢 令夫 NO,2 の続き
中世の哲学〜信仰と理性〜
哲学の学としての自覚は、人間の意識が神話(ミュトス)の想像力の域を脱して論理的理性(ロゴス)の立場に達したときに始まる。しかし、その様な「宗教から哲学へ」の歩みも高次の神話と言うべきキリスト教の出現により、自体はあたかも「哲学から宗教へ」と移行したかのごとくに考えられる。
そこで、哲学からの優位を主張するためには学問性を整備する必要に迫られ、そうしてキリスト教こそ真の哲学たるべきことを示そうとしたのが、いわゆる「護教家」の人達であった。そうした護教家の一人ユスティノスによると真理はそれが全て真理である限りキリスト教の真理であり、キリスト出現以前も例外ではないとした。
さて、キリスト教の整備に伴う異教との対立という激動期にあって、西洋中世の思想史を方向付けたのはアウレリウス・アウグスティヌスである。彼はその著書「告白」において自叙伝を語った。またキリスト教とは、罪によって損なわれた人間本性とその回復すなわち「救い」というすぐれて「よく生きること」、への期待とが織り成す真の意味の哲学であると主張した。
西暦八百年に教皇レオ三世により戴冠を受けたカ−ル大帝は新帝国建設の一環として学芸復興を重視した。その事業を主導したのはアルクインであったが、その文化的状況から哲学の微光も指し始めやがて、ヨハネス・スコット・エリウゲナの登場に至る。彼は、「ディオニシウス偽書」を著したが、それによると聖書は唯一絶対の権力であり、「真の哲学は真の宗教であり、逆に真の宗教も真の哲学である」とし、救いはその哲学の道を経なくてはならないとしている。
エリウゲナ以後しばらく新たな思想の展開は見られなかったが、その後、弁証論の世俗的化と、それを批判した修道院との対立を根本的に再検討しようとしたアンセルムスが出た。彼は、「信ずるために理解しようと努めるのではなく、理解するために信ずる」と言う態度をとって、それにより信仰と理性の和解の道が開かれることになる。
十二世紀になると、アリストテレスの著書が訳されることとなり、ラテン界へ移されることになったが、それはキリスト教の伝統に重大な危機をもたらすかのように見えた。そこにおいてアリストテレスの「哲学」とカトリック信仰の城砦としての「神学」を相互に補足しあうと言う見解からその綜合を果たし、模範的な高さへとした人物こそがトマス・アクィナスでありその著書は「神学大全」である。
しかし、もともとアリストテレス哲学とキリスト教は相容れない面を多分に含んでいたので、両者の連続性を断ち切ろうとする傾向が支配的になってくる。それが、ドゥンス・スコトゥス及びウィリアム・オッカムへの歩みとなっていくのである。
丁度のそのころ近世の幕開けを告げるルネサンスの烽火はすでに上がっていたのである。
近世の哲学〜自我と自然〜
神的なものと人間的なものとの対立を絶対化してしまった中世的な世界観では、無限と有限との断絶も絶対的なものとなり、人間や自然は無限ではあり得なかった。その傾向は、ルネサンス文学のダンテの「神曲」にも出ている通り根強いものであった。
その中において宇宙を無限と唱えたニコラウス・クザーヌスは革新的なものであり、近世哲学史はこの人から始まると言われている。この宇宙無限説の革命的な意義をもっとも悲痛な形で示したのが、ジョルダーノ・ブルーノである。彼はカトリックの異端者として流浪しながら、自らの思想を説いて回った。しかし、ついに捕らえられ火刑にさらされることとなった時「私に宣告を下したあなた方のほうが裁かれる私より脅えているではないか」という言葉を残して燃えさかる炎へ入ったと言う。
ところで、こうした自然の本質に関する「自然哲学」は別に、自然現象を対象とする「自然科学」もほぼ時を同じく出現した。この自然科学の方法論を始めて示した人物は、かの万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチであるが、それがもっと豊かに結実させたのは、地動説のコペルニクス、天文学のケプラー、物理学のガリレイである。
これに反し、実験や数学的論証の重要性を欠いていた人物はフランシス・ベーコンである。 しかし、ベーコンの著書「ノーブル・オルガニズム」におけるイドラ説は現代にも通用する戒めと言えよう。イドラとは人間が持つ4種類の偏見の事で、イドラに捉われることなく自分の足で立ち自分の頭で考えよと言うのが彼の主張するところである。
ところで「認識」において経験と概念が必要であるという洞察に到達したのは、カントにおいて初めてであり、彼の主著「純粋理性批判」の中で著されている。この様な認識論に到達する前にはデカルト・スピノザ・ライプニッツによって代表される理性論(合理論)とロック・バークリ・ヒュームに代表される経験論があった。そして、カントによるドイツ観念論の代表者にはフィヒテ・シェリング・ヘーゲルが存在する。
この頃、人間は誰しも誠実な祈りによって自分の孤独な内面において、神とじかに面接することができると言う神秘主義がルターやカルヴァンにより唱えられ、資本主義的な営利活動に対しても宗教的な是非が認められることがマックス・ウェーバーにより分析された。
人間の内面の無限への追求が最も鮮明な形で現れる、「自我」というのがデカルトの思想的な出発点であった。そこで彼は、徹底した懐疑の道を選び「われ考う、故にわれ在り」とし、思考する自我の存在もってあらゆる確実性の根拠とした。また、彼は精神と物体は独立なものであるとし、人間に置き換えると心身二元論の立場をとった。その立場からの、果たして人間は機械なのか?という問いは現代に先んずるところがあった。
さて、これまで述べてきたような神と世界、自然と人間に関する認識論的な問題を包括する巨大な体系的理論を構想・展開したのがヘーゲルである。彼の思想を一言で表現すると、著書「法の哲学」で述べているように、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」と言え、このように現実的なものとして現生する理性こそ、デカルトの自我とカントの人格の本質を包括する近代哲学の総決算と言える。
よって彼の死とともに近世は終わり、現代思想が生まれることとなる。
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哲学のすすめ/梅原 猛・ 橋本 峰雄・藤沢 令夫 NO,2
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1、哲学を考える
2、哲学の問うもの
3、哲学の歩み
4、文献解題
哲学のすすめ/梅原 猛・ 橋本 峰雄・藤沢 令夫 NO、1 の続き
認識と論理
今見ているものは「本物」か「見せかけ」か、すなわち「物質的世界」と「感覚的世界」は同一のもであるのか?と考える事が出来る。そこでは、「感覚的世界」は「物質的世界」の付帯的な像ではなく、「物質的世界」にその所在する場所を与え、意味を与える母体と言うことになる。
しかしそもそも、「感覚的世界」とは別の「物質的世界」というものは存在するのだろうか?ここにおいては、「感覚的世界」とは一つの視点からの「見え姿」に過ぎず、「物質的世界」を語ると言うことは、「見え姿」の無限集合について語ることと考えられるのではないだろうか。
ここで大切なことは、「感覚的世界」と「物質的世界」の関係についての「語り方」である。そこで、「論理学」が生じることになるのである。そして、その「論証」という荒い方法において、明確な言葉・叙述を失いがちな「哲学」を明確に表現しようと試みることとなる。
言葉
言葉には知覚・行動としての手段と伝達のための道具という2つの性質がある。
「知覚・行動としての手段」のための作用としては、様々な局面と状況を通じて単一の事物を指す実体化・物化としての作用と、現実の知覚的映像において区別と分離の不可能な契機を区別と分離を可能な独立体に変える区別の作用が存在する。
こうしたはたらきは、人間が環境に適応するため行動と深いつながりを持ち、しかもそういう動作的なものから一歩はなれた間接的な場面において言葉として成立している。
「伝達のための道具」は言葉の持つ本質的な意味であるが、そもそも言葉には、音声の文節によって生じたこと(分節的音声記号)、シンボルであること(象徴性)、一定の民億集団のなかで、約束されたものであること(社会契約的共同制作性)、言語体系がいくつも存在すること(言語的相対性)という性格がある。これらの性格により「伝達の道具として」活用できる。
このように、「言葉」とは人間そのものの基盤すなわち、「哲学」そのものの基盤と言えるので、「哲学」はまず言語批判でなくてはならない。しかし、これは特定の言語学説や哲学の立場に捉われるのでは無く自分自身の経験と思考で行われるものである。
3、哲学の歩み
ここでは、哲学の歩みを時代別に分けて、すなわち古代・中世・近世・現代・の哲学と東洋の智慧について見ていくことにする。
古代の哲学〜自然と人間〜
哲学はイオニアのタレスをもって始まると言われる。彼は、「万物の根源は水である」と言い、その後イオニアにおいては生成を問うたが、それに対してピュタゴラスからのイタリアの伝統が存在する。彼は、哲学と言う言葉を導入し、また世界の秩序ある構造を問うた。その後ヘラクレトスやパルメニデスの自然学から原子論へと移ってゆく。
そして、哲学の舞台はアテネへと移り、普遍的な本質をロゴス的な問答法で捉えようとするソクラテスが現れる。しかし、ソクラテスが問答で求めたものは明確に答えることが出来ず、これを思想として形を与えたのがプラトンである。彼は、人間を超越するイデアを考案し、人間はこのイデアと自然との間に立つと言う綜合を成し遂げた。その弟子の、アリストテレスにおいてはプラトンのイデアによる上からの哲学と対照的な下からの哲学である。また、彼は形而上学を著し存在論を展開することとなる。
その後、アレクサンダー大王の統治によりギリシアのポリスは過去の物となり、哲学は宗教的色彩を帯びてゆくこととなる。
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哲学のすすめ/梅原 猛・ 橋本 峰雄・藤沢 令夫 NO,1
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1、哲学を考える
2、哲学の問うもの
3、哲学の歩み
4、文献解題
1、哲学を考える
そもそも、哲学には3つの伝統が存在する。すなわち、ギリシア古代の哲学の諸学派、仏教やジャイナ教を含むインド古代の諸学派、そして中国の春秋戦国時代の諸学派(諸子百家)である。そして、時代を下って十五、六世紀までの世界史を考えるとこれら三つの思想圏はだいたい同格の洗練度を示したと言える。さらに、それぞれ三つの古代哲学は独自の論理体系を築き上げてもいるのである。
また、特に「西洋哲学」というのは特に中世哲学に始まる。その成立過程は「キリスト教」という神話を受け入れ、それを合理化・世俗化する努力において「哲学を」生むものであった。その過程において科学を生み出したが、これは信仰との緊張を生む事になった。
ところで、そもそも哲学の課題は「世界認識と善の選択との統一が、自由な、広い選択によって掴まれる事」であり、現在のように哲学の分化がひどくなっていてもその基本命題に変わりはない。
2、哲学の問うもの
哲学が問うものにおいては、生と死・存在と価値・認識と論理・言葉と大きく4つ存在する。
生と死
すなわち、いかに生き、いかに死ぬべきかは哲学が最初に問うとともに、最後に問うべき問いである。
そもそも、ヨーロッパ文明においてはギリシア文明とヘブライ文明という二つの大きな柱が存在する。そこにおいては、二つの不死のドラマが存在する。そのドラマの主人公はそれぞれ、ソクラテスとイエス・キリストである。ソクラテスにおいては、不死の魂・理性を信じ抜き、キリストにおいては復活の思想が起こることとなる。
その後、近代文明においてデカルトにより、理性への信頼及び物質への信頼により死を克服することとなる。しかし、死を考慮しない文明は果たして健全だと言えるだろうか?生と死の概念を喪失する事でおどろくべき殺戮が行われてこなかったか?永遠の理性を失った現代において、生と死の根本を問う必要に哲学は迫られている。
存在と価値
哲学というのは伝統的、に存在と価値との理論的統一とも言える。そこでは、価値から存在へと一元的な統一を求めるもの、逆に存在から価値への一元的統一を求めるもの、存在と価値との二元論がある。
価値から存在へと一元的な統一を求めるものは、主に古代中世の哲学に代表され、おおまかに言えばギリシア哲学は全ての存在は善であり、キリスト教においては全ての存在は悪(罪)であるという価値づけから存在に統一される。
ところで、価値により存在を統一する近世最大の試みをしたヘーゲルは、その方法において弁証法を用いた。しかし結局は、この論理的難点が存在する弁証法にかかずらわりすぎたと言えるだろう。
在在から価値への一元的統一を求めるものは、主に近世以後の哲学で顕著になった。これは、法(規範)を事実問題から、つまり価値を存在から基礎付けるものである。これはホッブスによる自然法思想に結びついている。
これにおいても、ヒュームやカントらにより、事実問題から権利問題を導くのはおかしいという批判を受け、存在と価値の分離が主張されることとなった。
存在と価値との二元論は近世以後の哲学を真に特徴付ける。というのも近世以降の哲学の根本的問題は科学と倫理の対立である。こういった意味での存在と価値の対立をカント・ホッブス・ルソーが確立した。
以上の三つは順に、客観的理想主義・自然主義・自由の理想主義となるが、もう一つ自然主義と自由の理想主義における中間の哲学者バートランド・ラッセルが存在する。
そして、我々はいずれかの世界観を選ばなければならない。そこにおいて、世界観を吟味・正当化する事こそ哲学の途である。
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神との対話―宇宙をみつける自分をみつける/ニール・ドナルド ウォルシュ(訳)吉田 利子
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90点
内容
筆者が神と対話した時の内容を克明に綴ったもの。
目次
・人生は、自分が何者であるかを思い出すため、創りなおすためにある。人生は学校ではない。学校は知りたいことを知るために行くところだ。人生は、すでに知っていることを体験する機会だ。
・自分の信念をもち、自分の価値観に従いなさい。それがあなたの親、その親の親の価値観、友人、社会の価値観なのだ。あなたが幸福かどうか知っているのは、あなただけだ。
・宇宙には「良い」状況も「悪い」状況もないと、第一に理解しなさい。すべてはあるがままにすぎない。第二に、すべての状況は一時的だ。そして、それがどちらの方向に変わるかはあなたしだいだ。
・自分がふさいだり、落ちこんだりしていると思ったら、考えなおしなさい。そんなことをしていても何にもならないと思ったら、考えなおしなさい。やりなおしたいと思うのなら、人生は何度でもあるから。
・何かから離れることはできない。相手は地獄までもあなたについてくる。それならば、どんな誘惑にも抵抗しないことだ。ただし、そこから顔をそむけて歩きなさい。この旅は、目的地に「行き着かない」旅ではないのだ。 他
読んだ動機
宇宙に関するレポートを書かないといけなかったから。
こんな人にお勧め
・人生の目的を知りたい人
・悩みがある人
内容のレベル
8
神との対話
わたしは最初、「神」と書いてあるくらいだから、宗教的なものかもしれないという偏見を抱いていた。しかし、全くそんなことはなく、寧ろ今までの人生と照らし合わせてみたり、これからの人生について思いを巡らせてみると、考えさせられるところが多々あり、とても有意義な書であった。ということで、その中から少しピックアップして見ていこう。
不安と愛
この世の全ての元は、「不安か愛」なのだそうである。というのは、善の方向の物事はすべて愛によって動機付けられ、一般的に言う悪の方向の物事は不安によって動機付けられているのだそうだ。しかし、全ての事に愛を持つ事こそ人間の本質であり、そもそも不安というのは、あらゆる愛を疑うことで生じているのだそうである。
言語の表現上宗教チックに見えなくもないのだが、別の視点から見ると意外と分かりやすいかもしれない。要するに、人は本来誰しも「愛」という物を与える存在なのであるが、それを求めようとするから、不安が生じ様々な悪の物事が生じるのである。もちろん、ここでの愛は、恋愛に限った話ではない、あらゆる物事を受容する愛等も含まれている。
そこで、この愛を与えるということを自分なりに考えてみた。すると、愛を与えるとは要するに、その愛を与える対象について考える事から始まる、そこで、その対象について無償の好感情を与えてみると見事にその対象へ存在なり、行動なりの悪しき感情がなくなり、その対象についての深い洞察を得ることが出来るのである。
要するに、愛を与えるとは些細な事にも考えを巡らせ、その対象に対する深い了解を得ることが出来るのではないか、という自分なりの解釈を与えてみたが、本書における「神」が言いたかった事とずれているかどうかは定かではない。
三位一体
また、この世の様々な物は、三つの物が合わさって出来ているというのだ。例えば、過去・現在・未来だったり、ここ・あそこ・その間だったり、本書で繰り返し言われている身体・精神・霊魂だったりする。この三つによって創造のプロセスが成り立っているというのだ。
その基本的なプロセスとは、思考によって考え出し、言葉によって表現し、それを行為に移すことなのだそうだ。そうすることで、三つのどのプロセスの過程においても、世界に様々な事を表現することが出来る。
人生の意味
さて、人生の意味とは要するに上記のプロセスを経て「創造」することなのだそうだ。何故かと言うと、神とは何も比べ得る物がない「絶的対」な世界に存在していたそうなのである。そこで、その「絶的対」なものを知るため「相対的」な世界を作ったのだそうだ。さらに、その「相対的」な世界において、人間が「創造」することこそ、神が物事を知ることになるという話である。なぜなら、人とは神そのものなのだからだそうだ。少し理解の範囲を超えてきたので、まとめにいこう。
まとめ
わたしは、正直神うんぬんという話は、すっ飛ばして読んでも別に特に支障はないと思っている。なぜなら、本書における「神」の位置付けは、人間側にとって見れば、創造を受け取る物であり、創造をする主体そのものではないからだ。そこで、本書を読むと為になることは実に多い。その為になったことで、いかに自分の考え方が変わり、また自分の生活に変化があったか、要するに何を創造したかの方が大事である。もちろん本書の「神」についての考え方を否定するわけではないが、本書の「神」が言っていたように、いい意味の個人主義は必要な物であり、また、神はすべてを受け入れてくれるのだそうである。
最後に
確かに言語というのは、なんとも表現し難いものだ。
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精神世界の叡智アーカイブス
iandeth.
ひだまり探検隊
ストレス対処から見た認知的メカニズム/杉浦 義典
採点
65点
内容
「心配」のプロセスを科学的に説明
読んだ動機
どんな心理を経て不安に陥るのかをを知りたかったから
こんな人にお勧め
日常の「不安」を科学的なアプローチで解明したい人、または解決したい人
内容のレベル
6
不安解消について
そもそも、なぜ不安は起こるのだろうか?不安なんか無くなれば人生楽しく生きられるのにと思わないだろうか?
しかし、そういうわけにはいかないのだ。何故なら、まず始めに起こってくる軽い不安というものはある現実に起こった問題に対して考ることにより、それを処理・解決しようとするから起こるのである。考えること自体は、不安が起こってしまった問題に対する解決へにつながるのだが、もしそれを処理・解決出来る自信が無いとき、また実際に未処理、未解決になったとき、不安はどんどん大きくなっていくのである。
そして、潜在意識の中に組み込まれ、日常の何気ないときにでも常にその不安について考えてしまい、泥沼(悪循環)にはまっていくのである。なんと恐ろしいことだろう。
対策としては、当たり前の事だが不安について考えないことである。他にもいろいろ方法が論じられているだろうが、結局この事に帰結している。
しかし、意識して考えないようにすることはかなり難しい。だから具体的には考えない環境を作るということになる。
その方法としては、活発的な方法は、何かに打ち込むことが大事になってくる。何か時間も不安も忘れて打ち込む事があれば、快方に向かうことは間違いないといえる。消極的な方法は何もかも投げ出して何も考えないことだ。しかし、こちらはお勧めできない。なぜなら、先ほども記したが、手足を動かさないで、全く何も考えないということはきわめて困難だからである。
以上のように論じてきたが、考えないようにする細かい方法はいろいろあるだろう。そのことについては、各種いろんな本を参考にしてもらいたい。もちろんその中で、自分にあった方法を実行するのが一番良いことは間違いない。
