慢心の考察とやる気論理
勉強のやる気という点でいえばここのところ去年の3月水準並に復活してきたので、ここでやる気の時間の経過とともに考察もしてみよう。
そもそも去年の3月以来続いていたやる気を損なわせた原因はなんだったのか、様々考えられるが恐らく一番の要因は”慢心”である。では、そもそもなぜ”慢心”が起こったのかと言う事を想起してみると、これは周りの水準につられてしまったからであろう。少しでも同年代の人と話したりインターネットを巡回してみれば飛び出してくる、「二十歳前後ってこんな水準だっただろうか?」と思っても仕方が無いような不明晰な言葉の数々に段々”慢心”していってしまったのだろう。しかし”慢心”の状態では出ないのが結果というもので、見事に去年後半から今月前半にあったいくつかのテストがあまり好ましくない結果に終わり反省する事となるのである(もっともこれは”慢心”してしまった事の反省でその時期にしていた事を悔いるのはお門違いである)。
ところで、よく考えるとわたしの人生”慢心”の連続である。少しでも良い結果が出ると過信してしまう性質をこの二十年間持ってきたが、恐らくそれは人生の初期において大多数の人が持っている性質であろう。いや、もしかするとある程度歳をとっても持っている人は多数いるのかもしれないが、少なくともわたしには多大な悪影響を及ぼしているであろう事がこの二十年間を見てみると分かる(もしかして欝気味になるのを防いでいるのかもしれないが)。
さてここで”慢心”を害のあるものとして排除し、次に昔考えていた二択問題を想起する。それは人生を出来るだけ楽に過ごすのが良いか苦労し続けて生きるが良いかという二択である。しかし、どうも色んな人の人生を拝見していると少なくとも金も無いのに何も活動しないで一定の水準の生活を保つと言うのは無理そうである。そこで、もし二択ならばここである程度苦労をするという選択を取るわけだが、実はここで苦労をしなくてもよいもう一つの選択肢がある。それは、”苦労”を”苦労”と思わない事だ。これは、一見難しそうに見えて実に簡単だ。なぜなら”苦労”は不変的ではなく可変的であるから、つまり自分の主観によってどうにでも出来るからである。少し前にはてブ界隈で流行っていた「努力家 対 一発屋」論争などするまでもなく、”苦労”を自分用にカスタマイズして成果をあげるように持っていけば良いのである。ただし、一つ注意しなければいけない事は体を酷使しすぎてはいけないと言う事だ。理由は簡単で過労で倒れてしまっては元も子もないからである。
さて、この理論でいけば勉強を一定以上する事などいとも簡単に出来る。わたしの場合は取り敢えず経済学・法律・数学・英語・文書力etcあたりを近いうちにある程度にしないとどうにもならないから勉強するのだが、これは人によって様々であろう。
それにしても前のやる気時期といい今回といい、多読したら何か書きたくなるのは自然の摂理に近いものがあるであろうと同時にその人の頭の中が動いている証拠であろう。
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