「才学博通への道」さんからのトラックバックへの意見
どうもわたしの稚拙な文章を考察して戴いてありがとうございます。コメント欄でも良かったのですが少し長くなりそうなのでエントリーとさせて頂きます。あと「学士」とありますけどまだ大学卒業してないですけどね(笑)
では、貴考察からいくつか突っ込みどころをあげさせて頂きますと、まずは
>そもそも自らがある考えに絶対的肯定、或は絶対的否定する信念たる主体性を持たずしてこの民主主義が目指す理想にいたる事はできぬと存じます。
>その緊張空間が思想の寝床となり両論を超克する論理が生まれ(それを見抜く第三者が必要だけれども)より真理=究極の政治へと近づくことが可能となる。
ですね。(仮にある理想があると想定したとしても*1↓)ある理想に至るためには「絶対的肯定 対 絶対的否定」の構図だけではありません。例えば、ある理想に至るための案を様々な人が考え提出したとすると、その性質は必ずしも「絶対的肯定 対 絶対的否定」では無く寧ろ、一部肯定や大部分否定といった案の方が多く出てくるでしょうし、また論理(政治)の構築において対立的な意見からそれを超越するという方法論を見つけるというのは理想的であり、現実的には様々な案の中から妥協点を取捨選択して擦り合わせていくプロセスこそが自分本位的な誤り無く決定するための方法論だと思われるからです。
*1
ちなみに「理想」、貴エントリー後半部分の「道徳」、「絶対主義」のおかしさにつては例えばこの文章(黒とつ)などを参考。
一言で言うと、「理想」「道徳」といった類の言葉を掲げて生きている人間は誰か?そういった言葉は決して権力を持った人間は用いない。さらに何かにすがる「絶対化」こそ愚かな行為である。
>そういたしますと貴論での考察では、経験を獲得した事が真理を獲得したとの考えに陥る擬主体性者であると汲み取りました。
たしかにわたしのこのエントリーだけを見るとそうも取れなくはないですが、わたしは基本的に経験論者(擬主体性者)ではありません(寧ろ見聞きしたものを精査した情報を結構重視していますし)。「自分本位の怪しさ」記事内の第三段落目二行目の「少し話しは飛ぶが」のところで”この話は仮定ですよ”というニュアンスを一応出しているつもりです。
>書きなぐりの長文ですが第一原理に人間の幸福たるものを民主主義の枠内と狭義に設定、第二原理に自己本位(主体性)の獲得は必要なものであるとし、第三原理にその方法論のもっとも最良なるもに道徳を据えました。
そして最後の結論部分ですが、仮に幸福の設定を現代主流の民主主義の枠内に設定したとして、というかここへきてやっと分かったのですがなぜ意見がずれるかというと恐らく「自己本位」の定義が双方で違うからですね。わたしのエントリーでの「自己本位」は”他人の意見を聞いて自分の思想を磨かないまま自分が妄信している考え方に依拠する言動”というニュアンスなのですが、神田氏の「自己本位」は”憲法十三条的な個人の尊重を根拠にした主体性を持った言動”という意味だと思いますが、もちろんわたしはそういった意味の「自己本位」は否定していません。よって、主体性という意味での自己本位は同様に必要であると思いますが、第三原理の”方法論として最良なものを道徳とする”のは少し怪しいですね。前の文脈からここでは特に武士道的な道徳を想定していると考えられますが、ここで個人的に武士道を詳しく読んだ事がないという問題は少し脇に置いておいて、わたしから最後に一つ提案できるとしたら何か一つの思想(ここでいう道徳)に絶対的に偏らないで、いろんな思想に触れて自分の思想を磨いていくのが一番いい姿勢だと思われますよ。なぜならある思想を絶対視した瞬間にその思想は陳腐なものになるからです。
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この記事へのコメント
あとリンク先の文章は残念ながらわたし程度が書ける文章では無く、昔物凄く共感した方の文章です。
「とつげき東北」と検索したら出てくるホームページの一番上の辺に「名言と愚行に関するウィキ」と「癒し系」というリンクがあるのでもし「黒とつ」の文章に共感したならちょっと読んでみるのもいいかもしれません。