哲学のすすめ/梅原 猛・ 橋本 峰雄・藤沢 令夫 NO,3

posted in 23:52 2007年02月19日 by 涼微
Comments(5) TrackBack(0)   哲学・心理  このBlogのトップへ 前の記事 次の記事

採点

90

項目

1、哲学を考える
2、哲学の問うもの
3、哲学の歩み
4、文献解題

哲学のすすめ/梅原 猛・ 橋本 峰雄・藤沢 令夫  NO,2  の続き

中世の哲学〜信仰と理性〜

哲学の学としての自覚は、人間の意識が神話(ミュトス)の想像力の域を脱して論理的理性(ロゴス)の立場に達したときに始まる。しかし、その様な「宗教から哲学へ」の歩みも高次の神話と言うべきキリスト教の出現により、自体はあたかも「哲学から宗教へ」と移行したかのごとくに考えられる。

そこで、哲学からの優位を主張するためには学問性を整備する必要に迫られ、そうしてキリスト教こそ真の哲学たるべきことを示そうとしたのが、いわゆる「護教家」の人達であった。そうした護教家の一人ユスティノスによると真理はそれが全て真理である限りキリスト教の真理であり、キリスト出現以前も例外ではないとした。

さて、キリスト教の整備に伴う異教との対立という激動期にあって、西洋中世の思想史を方向付けたのはアウレリウス・アウグスティヌスである。彼はその著書「告白」において自叙伝を語った。またキリスト教とは、罪によって損なわれた人間本性とその回復すなわち「救い」というすぐれて「よく生きること」、への期待とが織り成す真の意味の哲学であると主張した。

西暦八百年に教皇レオ三世により戴冠を受けたカ−ル大帝は新帝国建設の一環として学芸復興を重視した。その事業を主導したのはアルクインであったが、その文化的状況から哲学の微光も指し始めやがて、ヨハネス・スコット・エリウゲナの登場に至る。彼は、「ディオニシウス偽書」を著したが、それによると聖書は唯一絶対の権力であり、「真の哲学は真の宗教であり、逆に真の宗教も真の哲学である」とし、救いはその哲学の道を経なくてはならないとしている。

エリウゲナ以後しばらく新たな思想の展開は見られなかったが、その後、弁証論の世俗的化と、それを批判した修道院との対立を根本的に再検討しようとしたアンセルムスが出た。彼は、「信ずるために理解しようと努めるのではなく、理解するために信ずる」と言う態度をとって、それにより信仰と理性の和解の道が開かれることになる。

十二世紀になると、アリストテレスの著書が訳されることとなり、ラテン界へ移されることになったが、それはキリスト教の伝統に重大な危機をもたらすかのように見えた。そこにおいてアリストテレスの「哲学」とカトリック信仰の城砦としての「神学」を相互に補足しあうと言う見解からその綜合を果たし、模範的な高さへとした人物こそがトマス・アクィナスでありその著書は「神学大全」である。

しかし、もともとアリストテレス哲学とキリスト教は相容れない面を多分に含んでいたので、両者の連続性を断ち切ろうとする傾向が支配的になってくる。それが、ドゥンス・スコトゥス及びウィリアム・オッカムへの歩みとなっていくのである。

丁度のそのころ近世の幕開けを告げるルネサンスの烽火はすでに上がっていたのである。

近世の哲学〜自我と自然〜

神的なものと人間的なものとの対立を絶対化してしまった中世的な世界観では、無限と有限との断絶も絶対的なものとなり、人間や自然は無限ではあり得なかった。その傾向は、ルネサンス文学のダンテの「神曲」にも出ている通り根強いものであった。

その中において宇宙を無限と唱えたニコラウス・クザーヌスは革新的なものであり、近世哲学史はこの人から始まると言われている。この宇宙無限説の革命的な意義をもっとも悲痛な形で示したのが、ジョルダーノ・ブルーノである。彼はカトリックの異端者として流浪しながら、自らの思想を説いて回った。しかし、ついに捕らえられ火刑にさらされることとなった時「私に宣告を下したあなた方のほうが裁かれる私より脅えているではないか」という言葉を残して燃えさかる炎へ入ったと言う。

ところで、こうした自然の本質に関する「自然哲学」は別に、自然現象を対象とする「自然科学」もほぼ時を同じく出現した。この自然科学の方法論を始めて示した人物は、かの万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチであるが、それがもっと豊かに結実させたのは、地動説のコペルニクス、天文学のケプラー、物理学のガリレイである。

これに反し、実験や数学的論証の重要性を欠いていた人物はフランシス・ベーコンである。 しかし、ベーコンの著書「ノーブル・オルガニズム」におけるイドラ説は現代にも通用する戒めと言えよう。イドラとは人間が持つ4種類の偏見の事で、イドラに捉われることなく自分の足で立ち自分の頭で考えよと言うのが彼の主張するところである。

ところで「認識」において経験と概念が必要であるという洞察に到達したのは、カントにおいて初めてであり、彼の主著「純粋理性批判」の中で著されている。この様な認識論に到達する前にはデカルト・スピノザ・ライプニッツによって代表される理性論(合理論)とロック・バークリ・ヒュームに代表される経験論があった。そして、カントによるドイツ観念論の代表者にはフィヒテ・シェリング・ヘーゲルが存在する。

この頃、人間は誰しも誠実な祈りによって自分の孤独な内面において、神とじかに面接することができると言う神秘主義がルターカルヴァンにより唱えられ、資本主義的な営利活動に対しても宗教的な是非が認められることがマックス・ウェーバーにより分析された。

人間の内面の無限への追求が最も鮮明な形で現れる、「自我」というのがデカルトの思想的な出発点であった。そこで彼は、徹底した懐疑の道を選び「われ考う、故にわれ在り」とし、思考する自我の存在もってあらゆる確実性の根拠とした。また、彼は精神と物体は独立なものであるとし、人間に置き換えると心身二元論の立場をとった。その立場からの、果たして人間は機械なのか?という問いは現代に先んずるところがあった。

さて、これまで述べてきたような神と世界、自然と人間に関する認識論的な問題を包括する巨大な体系的理論を構想・展開したのがヘーゲルである。彼の思想を一言で表現すると、著書「法の哲学」で述べているように、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」と言え、このように現実的なものとして現生する理性こそ、デカルトの自我とカントの人格の本質を包括する近代哲学の総決算と言える。

よって彼の死とともに近世は終わり、現代思想が生まれることとなる。

哲学のすすめ/梅原 猛・ 橋本 峰雄・藤沢 令夫  NO,4 へ続く

人気ブログランキングぜひともクリックお願いしますm(__)m





スポンサーリンク


雑書文評記 TOPへ

トラックバックURL

この記事へのコメント

1. Posted by たつたつ   2007年02月20日 01:15
涼微さんこんばんわ

読みたい本が10冊以上増えてしまったのがよくわかります。

この哲学のシリーズはよく書けていると思います。おかげで大体の歴史的アウトラインはつかめました。

アクィナス、カント、ヘーゲルと読みたくなるのはわかるのですが、イギリス経験主義と大陸の合理主義は引用されることが多く、押さえておいたほうがいいと思います。特にロック、バークリ、ヒュームは批判の対象になることが多いです。
2. Posted by たつたつ   2007年02月20日 01:16
カントの『純粋理性批判』は涼微さんと同じ年頃に買って、上巻の半分くらいで挫折しました。岩波文庫で上中下というのはかなりきついですよ。

あとはプラトンですかね。キリスト教との絡みでも新プラトン主義として大きな影響を与えています。
ラッセルはプラトンを相当に研究したといわれています。

カントといえば、村上春樹の小説でもよく出てきますし、高橋源一郎の小説にも出てきます。文学者にとっては哲学の代名詞みたいなものでありそうです。

ルターーやカルヴァンあたりも押さえておきたいところですよね。キリスト教に興味がないならスルーしてもいいような人たちですが、アクィナスを読むならばその後のキリスト教の分裂も知りたくなるはずです。
3. Posted by たつたつ   2007年02月20日 01:16
ウェーバーの社会学も興味があります。

フランス革命以降の社会思想もおもしろそうです。この辺の歴史も押さえておくと知識が有機的につながると思います。マルサスの『人口論』を読んだことがあるのですが、経済思想の原点ともいえる本だと思います。

経済思想や社会思想や社会学もおもしろそうでこれから勉強していきたい分野ですね。

経営学のシリーズも期待しています。
4. Posted by たつたつ   2007年02月20日 01:29
コペルニクス、ブルーノ、ケプラー、ガリレオ、デカルトそしてニュートンあたりの自然科学の歴史もおもしろいです。

デカルトが『方法序説』を書いた理由はブルーノが火あぶりにされたのとガリレオが裁判にかけられて幽閉されてしまったことが原因にあるらしいです。

デカルトはブルーノやガリレオがローマカトリック教会に受け入れられなかったことを知っていて、自分は彼らとは違うということをアピールするために書いたらしいです。
5. Posted by たつたつ   2007年02月20日 01:31
デカルトは地動説論者だったと思われますが、そのことには触れないように細心の注意をしています。

ヨーロッパ中世の学問の実態を知るためのいい本としては、小説なのですがウンベルト・エーコの『薔薇の名前』がおもしろて暗黒時代と言われるヨーロッパ中世の神学者の実態を知ることができると思います。

学校の勉強も頑張ってくださいね。修士まで行くのには勉強をたくさんしなければなりません。趣味の読書と学校の勉強を両立できれば学者や作家になることは十分可能だと思います。

長くなりすぎたようですね。
哲学シリーズは参考にしていますよ^^

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔   
 
 
 
サイト内検索
トラックワード
あわせて読みたい


フィギュア動画
ブログパーツ