雑記・意見

世界認識と優先順位に関して

posted in 04:03 2013年02月26日 by 涼微
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世の中に存在するあらゆることの中から世界を切り取るということは、その選択の過程で優先順位が生まれ、その優先順位はその人のヒューリスティクスとして意識の中に存在することになる。

普段の生活の中でその優先順位に関して意識することは殆ど無いと言っていいわけだから、「優先順位をリセットする視点」を持たないとあらゆることの大元に関しての認識が欠けたまま日々を生きることになる。

それはつまり、自分で付けた優先順位と無意識的に付けさせられた優先順位がごちゃまぜになってある人の行動を決定づけるということであり、優先順位を付ける際に使用した、またはされていた基準が分からないということイコールでもある。

そうなってくると、根っこを持たないで人生を彷徨っているような感覚になり行き当たりばったりの行動でその場を凌ぐしかなくなってしまう。

そうならないための自己及び世界理解の方法としては、あらゆることの価値判断に対して大元に戻ってみて、もう一度優先順位を意識的に考え直すことが必要になる。


過度に自分の知識の範囲で思考をしがちな人が、意識的な思考抑制のため字面を追うという作業をする必要性

posted in 13:33 2011年12月10日 by 涼微
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「脳を活性化させるために朝からしっかり思考した方がいい」という考え方があります。この考え方は普段あまり考える習慣を持っていない人が実行するとそれなりの効果があるかもしれませんが、過度に考えすぎるタイプにとってはむしろ悪影響な場合があり、そういったタイプの人達はあまり意識的な思考をしないように朝から方向付けるべきと思われます。

字面を目で追うという方法

そのための一つの方法論として、あまり思考しないで字面を目で追うという作業をするという方法が考えられます。この考え方は早く読むための方法論として、大抵の速読法で同様の主張がなされていますが、考え立ち止まりながら読むということを禁止せざるをえなくなるこの方法は、過度に意識的に自分の頭で考えすぎるという傾向を防止するという観点でも役立ちます。

対象はWebページだと文字数が少ない場合が多く、リンクを辿る場合があり面倒なので本の方が好ましいです。
(ちなみにリンクを辿ることで認知の切り替えが生じ理解力が下がるという話がネット・バカという本に載っています。)

そして、その作業を意識的に考えなくても字面の意味が適宜理解できるようになるまで実行します。その際に、本一冊分ぐらいはさっと目を通すのがよいと思われます。

適宜理解できているかどうかの判定はさっと一冊の本(300ページぐらい)に目を通した後、しっかり考えたい部分がいくらか頭の中に残っているかどうかで判定します。その段階に来て、初めて気になった部分について考えるという行為を行います。

この作業の根底にある考え方は、物事に取り組む際にフロー状態になるための一つの条件である、「考えすぎず考えなさすぎない」という適切なレベルの思考状態に朝の内から持っていくにはどうしたらいいかということです。

おそらく、普段あまり考えていないけどしっかり考えるにはどうしたらいいかと言う方法論は色々と語られていますが、過度に思考してしまう状態から丁度よい具合に思考するにはどうしたらいいかという方法論はあまり語られていないと思うので少し考えてみました。

参考:深く物事を考え正確さを求めすぎる人が陥るかもしれない言葉に関する二つの現象

深く物事を考え正確さを求めすぎる人が陥るかもしれない言葉に関する二つの現象

posted in 23:01 2009年08月24日 by 涼微
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思考はある程度深く広いけれどあまり喋る事が上手くない人の特徴は、喋る前にどう表現しようか色々と考えてしまうという点である。そういった特徴の人が上手く喋るためには、取り敢えず間違っててもいいのであれこれ言いながらだんだんと納得する表現に近づけていけば良い。

この考え方の元ネタは、岡田斗司夫のひとり夜話【GyaOジョッキー】シリーズの中のどれかの放送回の話から(要するに忘れた*1)。

普段から妥協せずに物事を深く考えすぎている人は、テンポが重視される対人の場での会話においても自分が言わんとしている最も適した表現を探そうとして、相手からの言葉の投げ掛けの返答に数テンポ遅れてしまうことが多々あるかもしれません。

こういった返答の遅れを頻発しがちな人がテンポよく喋るためには、取り敢えず直感的に思いついた言葉を切り返しておいて、相手と会話をあれこれやり取りしながら、徐々に自分が納得できる表現に持っていくという方法を取り入れてみるのが良いと思います。

これはつまり、普段思考などをしている場合に自分一人で練り上げている過程を会話のテンポや相手がいる事の都合・不都合により、多少相手に肩代わりしてもらうとも言えます。

自分が納得していない状態で言葉にすることを「気持ち悪く」感じる完璧主義者やそれに近い人にとって、この方法を試す事に違和感を感じると思いますが、そもそも日常会話においては言葉の完璧さを求めるよりも意見を伝えることの方が優先事項なので、さして意味のないことにこだわっていたことを理解し曖昧さに適応できるようになるかもしれません。

この、言語で完璧に思考を表現できるかかどうかということは、次の話題にもつながります。

岡田斗司夫 - Wikipedia
岡田斗司夫 - Amazon


ある程度の賢さを有しているけどアウトプットの量が少ない人はただ単に「正確さ」に拘り過ぎているだけかもしれない。しかし、そもそも言語自体が不正確な性質を持っているので「正確さ」を必要以上に求める行為は一種の強迫観念である。

この考え方の元ネタは、脳を鍛える―東大講義「人間の現在」 のp134〜p135辺りの以下の文章から。

正確という烈しい病
ヴァレリーは正確という烈しい病に悩んだ結果、文学も哲学も捨ててしまいます。「正確という烈しい病」にかかっている人は、きみたちの中にも沢山いるはずです。頭がいいといわれる若い人は、「正確という烈しい病」にかかることが多いんです。この病にかかると、正確でないことをいう人はみんなバカに見えます。自分が何かいわなければならないときは、あくまで正確なものいいをしようとして、ついに何もいえなくなります。

(中略)

時間を測定する距離を測定するといった物理的測定ですら、尺度のゆらぎを考えたら、絶対的正確さなんてありえないわけです。まして、言葉を道具として使う世界では、言葉そのものが内因性の不正確さをもつところから、絶対的正確さなんて求めて得られようはずがないんです。これを言語の不確定性定理といってもいいでしょう。だから、言葉を主たる道具として使う世界と、正確という烈しい病が両立するわけはないんです。”

そもそも使う道具が正確ではないのに、その道具を使って表現したものを完全に正確にしようとする態度は無理のある話だと言えます。それゆえ、こういった不正確な性質を持つ道具を使いこなすためには、内包する不正確さを認めるある程度の「適当さ」が必要なのでしょう。さもないと同時に実現できるはずのない正確と不正確の狭間で「迷子」になってしまいます。

もちろん、物事を深く考え正確さにこだわるといった行為は何かを創造する際に仕上がりを良くするためにどうしても必要ですが、不正確な特徴を持つ道具を用いる場合においてはある地点を越えて正確さを求めようとする行為は上記の通り不必要になります。

それならば、不正確な道具を使う際に正確さにこだわるべきではなくなる地点はどの辺りなのか、自分の能力と折り合いをつけながらその地点を探ってみるという作業は生きていく上で誰しも必要なことなのだと思います。

*1:8/24現在では20話から後ろしか見れません。

他の章も色々と面白いです。
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「オタク」こそが真に面白く優れた人間である

posted in 05:46 2009年07月12日 by 涼微
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なんでオタクって空気読めないコメントするの?

ここではオタクを上記のリンク先に倣って「ある特定の分野の知識が深く、会話においてその知識を披露することを厭わない人」という事にし、オタクでない人を「取り敢えず相手の会話に同調して自分の意見を表明しない人」とする。

ここでいうオタクでない事のメリットは同調する空気を良くも悪くも壊さなくて済むという点だ。保守的で自分の知識や考えなど語らずに平安無事に流れる事が一番というわけだろう。しかし、こういう種の人間は話し出す前にどう反応するかという事が分かってしまう場合が多いので、つまらない奴である事が多い。さらに質が悪い事に自分とは違って自由に喋っている人間を「空気が読めない(参照:空気を読む・読まないという事について)」や「オタク」などの一般的にイメージが悪いとされている言葉でレッテルを貼ってむやみに相手を貶め、自分が優位であるかのように錯覚する。

しかし、そもそもオタクでないという事は何か特定の分野に精通したとりえも知識も無くただただ平均化された大衆でしかないという事を意味する。つまりそれはマスメディアや社会的大多数の人々から流される平均化された日本人像に則ってそこから外れないように精一杯頑張って行動するという事だ。

ところが、現代の知識が細分化された文化において精通したとりえも知識もないという事はすなわち能力が無いという事であり、ただただ何者かによって流されている情報を享受して生きているだけの自分の考えを持たない人間である事を意味する。

もちろん相手に合わせる会話が全くもって不必要だとは言わないが、リンク先で主張しているようにそれこそが全てだと思っている人間は気をつけたほうが良いだろう。

なんでオタクって空気読めないコメントするの?

オタクは同意のためのコメントを書かない。いや、書けないのかもしれない。

豊富な知識を披露したくなるというのは分からなくもない。

オタク同士であれば、情報でコミュニケーションをとるのは珍しくないだろうから。

だけどオタクでない人の日記にコメントする際は気をつけた方がいい。

求められていない情報は、ノイズになる。

自分が何かのオタクだと自覚のある方は、書き込みボタンを押す前にもう一度読み直してほしい。


彼らは自分の考えを書かない。いや、書けないのかもしれない。

同調する事で成り立つ場の空気に逆らいたくないのも分からなくもない。

彼ら同士であれば、その空気を外さない事がコミュニケーションだと思っている事も珍しくはないだろうから。

だけどその輪を外れてもっと洗練された集団に属する際には気をつけた方がいい。

同調するだけという事は、ただの空気という事になる。

それでコミュニケーションが成り立っていると考える方は、そもそもコミュニケーションについてもう一度考え直してほしい。


オタクこそが真に面白く優れている。リンク先の増田のように平均化された一般人の戯言なんか気にしないで皆でオタクを目指そう!

空気を読む・読まないという事について

posted in 15:34 2009年06月20日 by 涼微
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とかく日本では「空気を読め」だの「KY」だのとうるさいところがあり、またそれが正しい事のように多くの人々の共通認識にもなっている。

私も昔、とある主に先生が一人だけで喋り続けている事が主な普通の講義のようなゼミにおいて、そのゼミ中に先生がたまに生徒に向かって意見を聞くために問いかけたりもするのだけれど、私以外誰も積極的に答えようとしないという事態に陥った事がある。そうした時に一緒にゼミを受けていた馬鹿な奴が「空気を読め」(こんなに口調は強くなかったけど)というニュアンスの馬鹿げた事を言ってくる。

果たしてここで言う「空気」とは何なのだろうか?それはもちろん禄に発言できない自分が恥をかかないように合わせてねという馬鹿げた同調圧力でしかない。要するに、自分が発言出来ないからあなたも大人しく黙っててねという事だ。もちろんこんな幼稚な意見に従う必要もないし、何も発言出来ないでじっとしている人間はただただ命令に従うロボットのようだ。いや、一つ違う点を挙げるとするならば裏でこそこそと言う事が出来るといったところだろうか。

そして、一般的に発せられる「空気を読め」というのは上記と同様の性質を持っている。つまり、そういう発言をする人が普通の事だと思っている言動の様式と違う事を言ったりしたりする人間が気持ち悪くて理解したくないので、場の空気と言う集団的な概念を持ち出してあたかも皆が思っているようにして、その人個人の意見を通そうとしているのだ。

だから、「空気を読め」という奴は卑怯者でいてさらにそれと同時に大概頭も悪い。なぜならそんな事を言っている時点で自分が理解出来る言動の範囲が狭いですよと言っているようなものだからからだ。という事で、「空気を読め」と無自覚に頻繁に言っている奴にはくれぐれも気をつけた方が良い。

他にも世間に広がっているある対象を貶める様な言葉(社会では通用しない・コミュニケーション能力が無いetc)にも大抵、発話者のエゴイズムや劣等感などの非分析的な態度が入っているので気をつけたほうが良いと思われます。

益虫のアシダカグモを殺してしまった…という話

posted in 03:28 2009年05月30日 by 涼微
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読者の皆さんはご覧になった事があるだろうか?夜ふと目覚めてトイレに行こうとすると壁の隅を這っている体長10cm以上の巨大な蜘蛛の正体を…

そいつの名前は十中八九アシダカグモといって(さすがにその正体をブログには載せるのは気が引けるので、画像は各々検索してみてね!)ゴキブリを捕らえる名人の益虫なのだそうです(他にも小さいねずみぐらいまでなら捕らえられるらしい)。

私は先刻初めてその正体を見たので、そんな事前情報は知らずに当然思いっきり殺虫剤を噴射してしまいました。いや、でも部屋の外で見掛けた時は一度は見ていない事にしてスルーしてあげたんだ!何といっても蜘蛛は害虫を捕らえてくれる奴が多い事を知っているから。

でも部屋の外で見かけたそいつは、私が部屋に戻ってパソコンを弄っている間に部屋に侵入してきて、かさっと足音が聞こえたときにはもう30cm以内の距離にいたんだ!

まさか同じ蜘蛛に一晩で二回も驚かされ、さらに死に至らしめてしまう事になるとは…しかし、私がアシダカグモはゴキブリハンターでいい奴だという事を知っていれば逃がしてあげる心の余裕があった事だろう。

だから、こうして文章にして二度とそのような失態を繰り返さないように心がけたいと思います。同時に、皆さんもぜひ画像で正体を確認してそいつを見掛けた時には逃がしてあげるように心掛けて欲しいと思います。

ただ、実物を見掛けたらその容貌に驚かない人はそんなにいないと思いますが…

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行動力の源泉は感情の高ぶりだったんだ!

posted in 21:57 2009年04月19日 by 涼微
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身についている人にとっては当然の話で恐らく無意識にコントロールしている事なのでしょうけれども、行動力の源泉は感情の高ぶりだったんだ!

いや寧ろ、何で今までここまで「はっきりと」気付かなかったのだろう。きっかけはある動画を見てこれは凄いと思った事に関して行動することを、少なくともその動画を見てまだ数分しか経っていない現在において、いくらでも出来そうな感覚だ!

ここで、人間に躁鬱の状態があるのは進化論的に生態に都合が良いので備わっている事なのでしょうが、特に躁状態の時間が長い人が物凄く活発に活動しているらしいという事は、当然の話で誰もが知識として持っていると思います。

しかし、その知識を自分に差し向けようと、つまり自分事として捉えようと意識的に解釈する習慣は、そんなに多くの人には、少なくとも私にはきっちりと身に付いていないのだと思います。

ですので、この感覚を忘れていない今のうちに明文化して文章として残しておこうと思います。

補記1:これが梅田望夫さんが主張する直感を信じろという事にもつながるのかな!?
補記2:過去を振り返ってもしょうがないけれど、これは凄い!と思ったものをその日限りで忘れて素通りしてきたというのももったいない事ですわ。
補記3:またこれは「テンション」と表現される一時的なもので、長期的な「モチベーション」とは区別する必要があるだろう。

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