コミュニケーション能力信仰と情報の信頼性

posted in 01:35 2008年12月22日 by 涼微
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本来、「コミュニケーション能力」などというものはそんなに大層なものではなく、簡単に言うと自分の意見を口頭で伝える能力の事ですから、言い方は悪いですけどそこら辺にいる頭を大して使っていると思えない兄ちゃんでさえも持っているものなのです。

それを少し話が上手くない人間に向かって殊更に「お前はコミュニケーション能力が無い」などと意見する人も多く存在します。そしてまさにその行為こそが、言われた本人に自分はコミュニケーションが出来ないのかと思い込ませ、更に話す事を億劫にさせてしまいます。しかしながらそういったコミュニケーション能力信仰とでもいったものに駆られている人間こそが、寧ろただ声が大きいばかりで実は大して内容のある事を言っているわけではないのです。そして、そういった信仰者に騙される人がまた多いので、声が大きければそれで良いと言った構図になってしまう。

この構造を知っているものは、コミュニケーション能力云々と声高々に主張している人間の怪しさを見抜いているわけです。

そして、この事を見抜いている人間は世の中には何人もいて、その内の何人かがブログなどのインターネットのコンテンツに「コミュニケーション能力」についての文章を記述したとします。その場合にその主張を読んでくれる人が多いコンテンツはどこなのかというと、有名なコンテンツや過去に様々な文章を積み上げているコンテンツという事になります。なぜなら彼らの文章には信頼性が有り訪問者も多いからです。

ですから、こんな辺鄙なところで「コミュニケーション能力」についての考察を説いてみたところで過去に膨大な面白い文章を積み上げている「ハックルベリーに会いに行く」さんには敵いもしないわけですね。

というような事をコミュニケーション能力という幻想:ハックルベリーに会いに行くという記事を見ながら思いついたので備忘録的に記録しておこう。



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