”ケインズ”の考える経済学者の資質(「人物評伝」より)から見る経済学徒批判

posted in 20:21 2007年07月07日 by 涼微
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経済学者の研究は、非常に高度な専門的資質を必要とするものではない。それは、知的見地からいって、哲学や純粋科学などのもっとも高度の部門と比較すると、むしろ容易な問題だ、と言えるのではないだろうか。にもかかえわらず、すぐれた経済学者、いな有能な経済学者すら、類いまれな存在である。やさしいにもかかわらず、これに抜きんでた人のきわめて乏しい学科!このパラドックスの説明は、おそらく、経済学の巨匠はもろもろの才能のまれに見る結合をもたなければならない、ということのうちに見いだされるであろう。経済学者は、ある程度まで、数学者であり、歴史家であり、哲学者でなければならない。彼は記号を理解し、しかも言葉で語り、特殊なものを一般的な形で考え、その思考の過程で、具体的なものにも抽象的なものにも触れなければならない。彼は未来の目的ために、過去に照らして現在を探求しなければならない。人間性や制度のどのような部分も、彼の関心外にあってはならない。彼は、その気質において、目的意識に富むと同時に、公平無私でなければならず、芸術家のように高く飛翔しうるとともに、しかもときには、政治家のように大地に接近していなければならない。

この文章から示唆される事はいくつかあるのだが、まず一文目の「経済学者の研究は、非常に高度な専門的資質を必要とするものではない」という部分から考えてみよう。現在の経済学はケインズの生存していたいた時代よりも確かに高度化・多様化してはいるが、哲学や純粋科学などの数千年に渡る学問の積み上げてきた歴史やその理論からするとまだまだ遠く及ばない。これは他の学問分野に少しでも触れたのちに経済学を相対化して捉えてみると分かる事であるのだが、しかし意外と経済学の殻に閉じこもることに終始している人が多い。この事は、第三文目の「(易しい)にもかかえわらず、すぐれた経済学者、いな有能な経済学者すら、類いまれな存在である。やさしいにもかかわらず、これに抜きんでた人のきわめて乏しい学科」からも示唆される。ここから導出されることは、経済学のみを絶対的に捉えて勉強している人にはある程度以上の能力的発展を期待する事は出来ず、他の学問の分野(理数・人文)に触れながら経済学を勉強出来るぐらいでないと期待できない、言い換えればそもそもその事に気付く才能が無いと言う事を示唆している。それは本文後半の記述や学問の発展(特に経済学)は他分野学問の応用の結果発展してきたことからも窺えるであろう。さらに、この事から数学的素養が不十分な文系人間を経済学に押し込めるという現行の日本の文・理選択制度の考え方が誤っている事も初歩の段階で誤っている事も導かれる。特にここ最近では大学においても教養科目の質的・量的減退が進んでおり中身が希薄な人間が世に大量生産されている現状は深刻である。

また、これはどの学問(または一般的に物の見方)にも言える事だが、ある一つの事に集中していてもその真理は総じて見えてこないものだ。というのも視点が一点に定まってしまうと見えない事が他からの視点を与えることで事で初めて見えてくる事が多々あるからである。これは誰しも経験的に分かる事であろう。そういうわけで経済学にも様々な批判がなされているがその多くが部外者からの批判である。その様な批判もこのブログでその内取り上げてみたいと思う。

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