(雑記)自然における現代への有効性(前編)

posted in 19:01 2006年12月30日 by 涼微
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今日は、朝から字を見続けた状態だったので、昼頃に頭が痛くなってしまった。そこで、いつもは薬を飲んで、寝て直すのだが、今日はふと昼飯でも食べながら自然にあたっていれば、治るのではないかと思い発ち、近くのダイエーで昼飯を買って、こんなくそ寒い中、川の傍の公園で寝そべりながら昼飯を食べたわけであるが、その時気付いた自然における現代への有効性を記述していこう。

三次元的空間性感覚
これは、遠くの木や雲を見て思ったのだが、物体が密集している家の中あるいは都市部といった空間と物の見方が全く違うのである。物体が密集していると、どうも空間が二次元的に見える。これはパソコンやテレビなどのモニターにより無意識的に物体を二次元的に見るよう刷り込まれている弊害ではないかという懸念がする。しかし、それとは違って、外に出て少し遠くのものを見続けていると物体が本来の三次元に戻っていくのである。これは、別に嬉々として語るものでもないが、恐らく、長く自然に出て遠くを見てない人は、知らず知らずの内に物体を二次元的に見ているのではないかというきらいがある。

この物体を二次元的に見ることについては、様々な懸念がある。まずは、目が悪くなることである。これは、普段から自然を見ているアフリカの民族は視力が抜群にいいという報告からも分かる通り、二次元的に物を見ると目が悪くなるのである。ちなみにこれは、普段近くのものを見る事により遠くのものを見る必要性がなくなり、目の焦点が近くになる事にも起因している。

また、もう一つの懸念は、そのまんまだが、三次元的な物の見方が失われるということである。これはつまり、物体は本来三次元な物なのに、二次元的視点でしか捉えることが出来ないという事である。これによる弊害は、普段生活している中で様々なところに現れる。例えば普段街を歩いているときでもこの空間認識能力がない人は、相対する物体なり相手との距離感が掴めずに避けるのが困難になっている。これについては、うすうす感じていたのだが、普段道を歩いているとき、距離感を掴めないのかよく人や物体とあたるぎりぎり直前に避ける人が多い気がする。

以上のように三次元的な感覚の重要性を論じてきたが、要するに家や都市に篭っている人は、自然のある所に出て遠くを見てみると、何か新たな発見があるかもしれないよということだ。





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