2007年02月
哲学のすすめ/梅原 猛・ 橋本 峰雄・藤沢 令夫 NO,3
採点
90点
項目
1、哲学を考える
2、哲学の問うもの
3、哲学の歩み
4、文献解題
哲学のすすめ/梅原 猛・ 橋本 峰雄・藤沢 令夫 NO,2 の続き
中世の哲学〜信仰と理性〜
哲学の学としての自覚は、人間の意識が神話(ミュトス)の想像力の域を脱して論理的理性(ロゴス)の立場に達したときに始まる。しかし、その様な「宗教から哲学へ」の歩みも高次の神話と言うべきキリスト教の出現により、自体はあたかも「哲学から宗教へ」と移行したかのごとくに考えられる。
そこで、哲学からの優位を主張するためには学問性を整備する必要に迫られ、そうしてキリスト教こそ真の哲学たるべきことを示そうとしたのが、いわゆる「護教家」の人達であった。そうした護教家の一人ユスティノスによると真理はそれが全て真理である限りキリスト教の真理であり、キリスト出現以前も例外ではないとした。
さて、キリスト教の整備に伴う異教との対立という激動期にあって、西洋中世の思想史を方向付けたのはアウレリウス・アウグスティヌスである。彼はその著書「告白」において自叙伝を語った。またキリスト教とは、罪によって損なわれた人間本性とその回復すなわち「救い」というすぐれて「よく生きること」、への期待とが織り成す真の意味の哲学であると主張した。
西暦八百年に教皇レオ三世により戴冠を受けたカ−ル大帝は新帝国建設の一環として学芸復興を重視した。その事業を主導したのはアルクインであったが、その文化的状況から哲学の微光も指し始めやがて、ヨハネス・スコット・エリウゲナの登場に至る。彼は、「ディオニシウス偽書」を著したが、それによると聖書は唯一絶対の権力であり、「真の哲学は真の宗教であり、逆に真の宗教も真の哲学である」とし、救いはその哲学の道を経なくてはならないとしている。
エリウゲナ以後しばらく新たな思想の展開は見られなかったが、その後、弁証論の世俗的化と、それを批判した修道院との対立を根本的に再検討しようとしたアンセルムスが出た。彼は、「信ずるために理解しようと努めるのではなく、理解するために信ずる」と言う態度をとって、それにより信仰と理性の和解の道が開かれることになる。
十二世紀になると、アリストテレスの著書が訳されることとなり、ラテン界へ移されることになったが、それはキリスト教の伝統に重大な危機をもたらすかのように見えた。そこにおいてアリストテレスの「哲学」とカトリック信仰の城砦としての「神学」を相互に補足しあうと言う見解からその綜合を果たし、模範的な高さへとした人物こそがトマス・アクィナスでありその著書は「神学大全」である。
しかし、もともとアリストテレス哲学とキリスト教は相容れない面を多分に含んでいたので、両者の連続性を断ち切ろうとする傾向が支配的になってくる。それが、ドゥンス・スコトゥス及びウィリアム・オッカムへの歩みとなっていくのである。
丁度のそのころ近世の幕開けを告げるルネサンスの烽火はすでに上がっていたのである。
近世の哲学〜自我と自然〜
神的なものと人間的なものとの対立を絶対化してしまった中世的な世界観では、無限と有限との断絶も絶対的なものとなり、人間や自然は無限ではあり得なかった。その傾向は、ルネサンス文学のダンテの「神曲」にも出ている通り根強いものであった。
その中において宇宙を無限と唱えたニコラウス・クザーヌスは革新的なものであり、近世哲学史はこの人から始まると言われている。この宇宙無限説の革命的な意義をもっとも悲痛な形で示したのが、ジョルダーノ・ブルーノである。彼はカトリックの異端者として流浪しながら、自らの思想を説いて回った。しかし、ついに捕らえられ火刑にさらされることとなった時「私に宣告を下したあなた方のほうが裁かれる私より脅えているではないか」という言葉を残して燃えさかる炎へ入ったと言う。
ところで、こうした自然の本質に関する「自然哲学」は別に、自然現象を対象とする「自然科学」もほぼ時を同じく出現した。この自然科学の方法論を始めて示した人物は、かの万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチであるが、それがもっと豊かに結実させたのは、地動説のコペルニクス、天文学のケプラー、物理学のガリレイである。
これに反し、実験や数学的論証の重要性を欠いていた人物はフランシス・ベーコンである。 しかし、ベーコンの著書「ノーブル・オルガニズム」におけるイドラ説は現代にも通用する戒めと言えよう。イドラとは人間が持つ4種類の偏見の事で、イドラに捉われることなく自分の足で立ち自分の頭で考えよと言うのが彼の主張するところである。
ところで「認識」において経験と概念が必要であるという洞察に到達したのは、カントにおいて初めてであり、彼の主著「純粋理性批判」の中で著されている。この様な認識論に到達する前にはデカルト・スピノザ・ライプニッツによって代表される理性論(合理論)とロック・バークリ・ヒュームに代表される経験論があった。そして、カントによるドイツ観念論の代表者にはフィヒテ・シェリング・ヘーゲルが存在する。
この頃、人間は誰しも誠実な祈りによって自分の孤独な内面において、神とじかに面接することができると言う神秘主義がルターやカルヴァンにより唱えられ、資本主義的な営利活動に対しても宗教的な是非が認められることがマックス・ウェーバーにより分析された。
人間の内面の無限への追求が最も鮮明な形で現れる、「自我」というのがデカルトの思想的な出発点であった。そこで彼は、徹底した懐疑の道を選び「われ考う、故にわれ在り」とし、思考する自我の存在もってあらゆる確実性の根拠とした。また、彼は精神と物体は独立なものであるとし、人間に置き換えると心身二元論の立場をとった。その立場からの、果たして人間は機械なのか?という問いは現代に先んずるところがあった。
さて、これまで述べてきたような神と世界、自然と人間に関する認識論的な問題を包括する巨大な体系的理論を構想・展開したのがヘーゲルである。彼の思想を一言で表現すると、著書「法の哲学」で述べているように、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」と言え、このように現実的なものとして現生する理性こそ、デカルトの自我とカントの人格の本質を包括する近代哲学の総決算と言える。
よって彼の死とともに近世は終わり、現代思想が生まれることとなる。
哲学のすすめ/梅原 猛・ 橋本 峰雄・藤沢 令夫 NO,4 へ続く
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ブログ論評「おれの買い物」
そもそも「おれ」と言う言葉には、現代では主として同輩以下に対して用いる荒っぽい言い方。(広辞苑)という意味がある。そういうわけで一般的に言うと、世間に向けても「おれ」を使用する人は、往々にして自信過剰、悪く言えば利己主義者である。
では、ブログ「おれの買い物」ひいては、その管理人たつたつさんの場合はどうだろうか?
上記の例に違わず、確かに主観的な書き方だと思われるところもある。しかし、それを支える知識・文章力・考察力があるのもまた事実である。
それは、物理法則はいかにして発見されたか/R.P.ファインマン(訳)江沢 洋 における、一番始めのコメントからも窺われた。わたしのブログをたてつつ、その広い知識を活かした関連書籍の紹介、そしてその考察力から来るブログを一見しただけで、相手(わたし)の回答を促すような的を射たコメント。(もちろんコメント時には上記の意味を含む「おれ」を使わないで「私」をお使いになっている)
まさに、知識人とはこういった人のことであり、またその自信に裏打ちされた能力があるといっても過言ではないだろう。
そういうわけで、おれの買い物内の過去記事を見てみると、とても勉強になる記事ばかりである。そのエッセイからには奇抜な発想力が窺えるし、書籍に関してもも鋭い視点から意見を語っている。もちろん文章量も豊富なので、読み物としてもかなりの質である。ただ、少し記事を検索するのが難点であり、読者側設計とはもう一つ呼べないので、もう少しカテゴリを整理してもらいたいところである ^^
また、たつたつさんは理系と言うことで、文系のわたしにとっても、また変わった視点からの見方なのでとても刺激になる。
ということで、少なくとも今まで見た中で人柄の面でも、能力の面でも一番尊敬できるブログ・管理人さんなので、ぜひおれの買い物一読してみてはいかがだろうか。
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哲学のすすめ/梅原 猛・ 橋本 峰雄・藤沢 令夫 NO,2
採点
90点
項目
1、哲学を考える
2、哲学の問うもの
3、哲学の歩み
4、文献解題
哲学のすすめ/梅原 猛・ 橋本 峰雄・藤沢 令夫 NO、1 の続き
認識と論理
今見ているものは「本物」か「見せかけ」か、すなわち「物質的世界」と「感覚的世界」は同一のもであるのか?と考える事が出来る。そこでは、「感覚的世界」は「物質的世界」の付帯的な像ではなく、「物質的世界」にその所在する場所を与え、意味を与える母体と言うことになる。
しかしそもそも、「感覚的世界」とは別の「物質的世界」というものは存在するのだろうか?ここにおいては、「感覚的世界」とは一つの視点からの「見え姿」に過ぎず、「物質的世界」を語ると言うことは、「見え姿」の無限集合について語ることと考えられるのではないだろうか。
ここで大切なことは、「感覚的世界」と「物質的世界」の関係についての「語り方」である。そこで、「論理学」が生じることになるのである。そして、その「論証」という荒い方法において、明確な言葉・叙述を失いがちな「哲学」を明確に表現しようと試みることとなる。
言葉
言葉には知覚・行動としての手段と伝達のための道具という2つの性質がある。
「知覚・行動としての手段」のための作用としては、様々な局面と状況を通じて単一の事物を指す実体化・物化としての作用と、現実の知覚的映像において区別と分離の不可能な契機を区別と分離を可能な独立体に変える区別の作用が存在する。
こうしたはたらきは、人間が環境に適応するため行動と深いつながりを持ち、しかもそういう動作的なものから一歩はなれた間接的な場面において言葉として成立している。
「伝達のための道具」は言葉の持つ本質的な意味であるが、そもそも言葉には、音声の文節によって生じたこと(分節的音声記号)、シンボルであること(象徴性)、一定の民億集団のなかで、約束されたものであること(社会契約的共同制作性)、言語体系がいくつも存在すること(言語的相対性)という性格がある。これらの性格により「伝達の道具として」活用できる。
このように、「言葉」とは人間そのものの基盤すなわち、「哲学」そのものの基盤と言えるので、「哲学」はまず言語批判でなくてはならない。しかし、これは特定の言語学説や哲学の立場に捉われるのでは無く自分自身の経験と思考で行われるものである。
3、哲学の歩み
ここでは、哲学の歩みを時代別に分けて、すなわち古代・中世・近世・現代・の哲学と東洋の智慧について見ていくことにする。
古代の哲学〜自然と人間〜
哲学はイオニアのタレスをもって始まると言われる。彼は、「万物の根源は水である」と言い、その後イオニアにおいては生成を問うたが、それに対してピュタゴラスからのイタリアの伝統が存在する。彼は、哲学と言う言葉を導入し、また世界の秩序ある構造を問うた。その後ヘラクレトスやパルメニデスの自然学から原子論へと移ってゆく。
そして、哲学の舞台はアテネへと移り、普遍的な本質をロゴス的な問答法で捉えようとするソクラテスが現れる。しかし、ソクラテスが問答で求めたものは明確に答えることが出来ず、これを思想として形を与えたのがプラトンである。彼は、人間を超越するイデアを考案し、人間はこのイデアと自然との間に立つと言う綜合を成し遂げた。その弟子の、アリストテレスにおいてはプラトンのイデアによる上からの哲学と対照的な下からの哲学である。また、彼は形而上学を著し存在論を展開することとなる。
その後、アレクサンダー大王の統治によりギリシアのポリスは過去の物となり、哲学は宗教的色彩を帯びてゆくこととなる。
哲学のすすめ/梅原 猛・ 橋本 峰雄・藤沢 令夫 NO,3 へ続く
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哲学のすすめ/梅原 猛・ 橋本 峰雄・藤沢 令夫 NO,1
採点
90点
項目
1、哲学を考える
2、哲学の問うもの
3、哲学の歩み
4、文献解題
1、哲学を考える
そもそも、哲学には3つの伝統が存在する。すなわち、ギリシア古代の哲学の諸学派、仏教やジャイナ教を含むインド古代の諸学派、そして中国の春秋戦国時代の諸学派(諸子百家)である。そして、時代を下って十五、六世紀までの世界史を考えるとこれら三つの思想圏はだいたい同格の洗練度を示したと言える。さらに、それぞれ三つの古代哲学は独自の論理体系を築き上げてもいるのである。
また、特に「西洋哲学」というのは特に中世哲学に始まる。その成立過程は「キリスト教」という神話を受け入れ、それを合理化・世俗化する努力において「哲学を」生むものであった。その過程において科学を生み出したが、これは信仰との緊張を生む事になった。
ところで、そもそも哲学の課題は「世界認識と善の選択との統一が、自由な、広い選択によって掴まれる事」であり、現在のように哲学の分化がひどくなっていてもその基本命題に変わりはない。
2、哲学の問うもの
哲学が問うものにおいては、生と死・存在と価値・認識と論理・言葉と大きく4つ存在する。
生と死
すなわち、いかに生き、いかに死ぬべきかは哲学が最初に問うとともに、最後に問うべき問いである。
そもそも、ヨーロッパ文明においてはギリシア文明とヘブライ文明という二つの大きな柱が存在する。そこにおいては、二つの不死のドラマが存在する。そのドラマの主人公はそれぞれ、ソクラテスとイエス・キリストである。ソクラテスにおいては、不死の魂・理性を信じ抜き、キリストにおいては復活の思想が起こることとなる。
その後、近代文明においてデカルトにより、理性への信頼及び物質への信頼により死を克服することとなる。しかし、死を考慮しない文明は果たして健全だと言えるだろうか?生と死の概念を喪失する事でおどろくべき殺戮が行われてこなかったか?永遠の理性を失った現代において、生と死の根本を問う必要に哲学は迫られている。
存在と価値
哲学というのは伝統的、に存在と価値との理論的統一とも言える。そこでは、価値から存在へと一元的な統一を求めるもの、逆に存在から価値への一元的統一を求めるもの、存在と価値との二元論がある。
価値から存在へと一元的な統一を求めるものは、主に古代中世の哲学に代表され、おおまかに言えばギリシア哲学は全ての存在は善であり、キリスト教においては全ての存在は悪(罪)であるという価値づけから存在に統一される。
ところで、価値により存在を統一する近世最大の試みをしたヘーゲルは、その方法において弁証法を用いた。しかし結局は、この論理的難点が存在する弁証法にかかずらわりすぎたと言えるだろう。
在在から価値への一元的統一を求めるものは、主に近世以後の哲学で顕著になった。これは、法(規範)を事実問題から、つまり価値を存在から基礎付けるものである。これはホッブスによる自然法思想に結びついている。
これにおいても、ヒュームやカントらにより、事実問題から権利問題を導くのはおかしいという批判を受け、存在と価値の分離が主張されることとなった。
存在と価値との二元論は近世以後の哲学を真に特徴付ける。というのも近世以降の哲学の根本的問題は科学と倫理の対立である。こういった意味での存在と価値の対立をカント・ホッブス・ルソーが確立した。
以上の三つは順に、客観的理想主義・自然主義・自由の理想主義となるが、もう一つ自然主義と自由の理想主義における中間の哲学者バートランド・ラッセルが存在する。
そして、我々はいずれかの世界観を選ばなければならない。そこにおいて、世界観を吟味・正当化する事こそ哲学の途である。
哲学のすすめ/梅原 猛・ 橋本 峰雄・藤沢 令夫 NO,2 へ続く
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本多静六自伝 体験八十五年/本多 静六
内容(「BOOK」データベースより)
人生即努力、努力即幸福―。明治・大正・昭和を見事に歩んだ痛快無比の人生から、いまを生きる私たちのなすべきことが見えてくる。
項目
1 少年時代
2 苦学時代
3 大学生活を語る
4 ドイツ留学
5 教授時代
6 私の家庭生活
7 人と事業
8 人生即努力、努力即幸福
採点
75点
(評・感)本多静六自伝 体験八十五年
書評
わたし自身、本多静六という人物を本書で始めて知ったのだが、知らない人のために簡単に経歴を掲載してみる。
経歴(wikipedia)
1880年 島村泰氏(岩槻藩塾長)に書生として師事。
1884年 東京山林学校(東京農科大学)に入学。
1890年 ドイツへ留学。山林学校(ドレスデン工科大学林学部)、ミュンヘン大学に学ぶ。
1893年 東京農科大学の助教授に就任。
1894年 東京専門学校(早稲田大学)の講師に就任。
1899年 学位林学博士を取得。論文は『森林植物帯論』。
1900年 東京帝国大学農科大学(東京大学農学部)の教授に就任。
1901年 日比谷公園の設計調査委員に就任。
1915年 明治神宮造営局の参与に就任。
1930年 国立公園調査会の委員に就任。所有していた山林(秩父郡大滝村、約2700ha)を埼玉県へ寄贈。
1938年 東照宮300年祭記念調査会の委員長に就任。
ところで、解説を務めている神田昌典氏も指摘している事だが、本書の内容はこの経歴の中でも主に、教授になる前までの26年間が大半を占めている。そこで神田氏の言を借りると、十代から二十代の時期に経験を積むことが大切だと言うメッセージを我々に伝えたかったのではないだろうか。という事で、わたしも大いに同意するところだが、しかしそれにしては具体的な記述に乏しく、誤解を恐れずに言えば、氏の生涯の断片を表面的に切り取っているだけように思われた。それについては、文字の大きさに対してのページ数の少なさ(260ページ)も物語っている。
もちろん、それには様々な要因が考えられる。本多氏は生涯約370冊の本を著したということで、恐らく具体的な記述はそちらのほうに書いているのだろうし(まことに恐縮ながら一冊も読んだことはないのですが…)、また本書は氏の生涯における最後の一冊と言うことで人生を大まかに印象的な事柄を振り返る意味の一冊にしたかったのだろう。
もちろん、お金儲けの意味合いが薄いと思われる本書(これは氏の性格からにじみ出ているのだが)においては、著者が書きたいことを書けばよいので特に否定はしないが、わたしが勝手に本書に思い描いていた氏の学生時代や教授時代における氏の具体的な生活様式の方法としては少し物足りなかった感は否めない。
おそらく、自伝と言いうのはこういうものなのであろう。
感想
著者とわたしの意図の違いを嘆いてもしょうがないので、ここからは本書の良かった点を書くことにしよう。
先にも書いたとおり、本書は幼少期から大学教授までのストーリーであるが、その現代では到底考えつかないような奇抜な物語は良かった。例えば、勉学が思うようにはかどらないと言うことで二度も自殺しようとしたり、外国に行き来するにはまだまだ不便な時代における留学記はとても現代生活では思いもよらない貴重で斬新なものである。
さらに、本書で言わんとしている人生を達観した者としての人生哲学
(こちらを参照のこと↓)
はこれを見るためだけのために、本書を買っても間違いないといえる程のものである。
補足(林学)
林学(りんがく)は、森林、林業に関する学問分野で、造林、砂防・治山、林政、林産化学、林業工学、森林計画学などに細分されている。大学、大学院においては、農学部内に林学、あるいは森林科学などの名称で学科や専攻コースが置かれる場合が多い。
元来は、森林を資源として捉えた林業の側面からの研究が主であったが、現代では環境問題に重きを置いて研究されている。
なるほど、現代で言えば農学部林学科と言うことになるのか。本書で、初めて本多氏の専攻が「林学」と書かれていた時は、どういう事だろう?と思ったけど、本書を読み進むに連れてだんだん意味が分かっていく過程もそれはそれで面白い。
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経営学 NO.3 〜経営戦略の階層〜
今日は、経営戦略の階層とそれぞれの戦略について見ていく事にしよう。
そもそも、階層とは何を意味する言葉だろうか?それは、例えばある建物もしくは体系における下層から上層までの積み重なりの構造を指す言葉であろう。要するに、様々な物質や機能が集まったある集合体で上下的に分けることが出来る連なりと言えよう。
そこで、会社の階層性について考えてみると、大まかに三つの階層に分けることが出来る。まずは、全てを包括している企業それ自体の階層(厳密には階層と呼ぶのはいささか、間違っている気はするが)と、テレビ部門や家電事業等のある特定の製品ないし事業の階層と、販売・生産・人事といった会社の機能による階層である。
そこで、上記3つの階層にはそれぞれに異なる戦略が与えられるのだが、その名称は順に全社戦略、事業戦略、職能別戦略と呼ばれる。
ここで、それぞれの主な戦略について見てみると全社戦略においては、まさにその企業の戦略の方向性を決めるものであり、例えば事業を増やすため多角化をしたり、逆に様々な事業がある中で、どの事業に重点を置くか?という事を決めたりする。または、その企業が影響を持つ範囲を増やすために、全国展開したり海外に出る国際化をしたりする。
次に、事業戦略ではその企業と同じ製品・事業を展開しているほかの企業と競うための戦略で、コストの低下や特徴的な広告を出したりして、如何にしたらにその製品市場の中で他企業より優位に立ち、収益を上げることができるのか?という事を念頭に策定する戦略である。
最後の職能別戦略においては、製造部門、販売部門、人事部門等がそれぞれの方向や効率等を策定する戦略である。
以上の様に経営戦略においては、企業の中で大きく三つの階層に分けられるのであるが、一般的に大企業である程、縦の広がりである階層やその階層内の横の広がりが細かく分けられてる。というのも大企業においてはトップが逐一それぞれの事業や部門を把握するのは困難なので、それぞれの事業部長や部門長に任せる事となり、より組織が小分された形になるのである。
という事で、今日は経営戦略の階層について見てきたが、次回は全社戦略の手法について詳しく見ていくことにしよう。
ソース
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空の境界 上/奈須 きのこ
あらすじ(「BOOK」データベースより)
二年間の昏睡から目覚めた少女・両儀式が記憶喪失と引き換えに手に入れた、あらゆるモノの死を視ることのできる“直死の魔眼”。浮遊する幽霊の群れ。人の死を蒐集する螺旋建築…。この世の存在のすべてを“殺す”、式のナイフに映る数々の怪異。非日常の世界は、日常の世界と溶け合って存在している―。―あの伝説の同人小説の講談社ノベルス化が満を持して成就。
採点
70点
(書評)空の境界
本書は良くも悪くも独特な特徴を持った文体・ストーリーであるので、賛否両論となっているのも容易に頷ける。
文体においては空虚に巣食う魔さんで指摘されている通り、確かに意味不明な表現が多々あり、適切でない表現と言われても仕方が無い所もあるのは否めない。しかし、その言語に詳しい人にとっての理解し難い表現も、わたしにとっては深い文章だとは言わないまでも心地良く思われた。
というのも、奈須氏は敢えて意識的にこの様な、良く言えば凝った文章にして、自分の世界観を表現しようと腐心したのだろう。もちろん見方によっては独りよがりな読者寄りではない文体と思われてもしょうがないのだが、わたしみたいにこういった難解さ、見る人から見れば稚拙さの上に立つなんとも言えない文体を好む人にとっては本作品を支持している理由となり得る。(笠井氏はどうだか知らないが)
上記の「敢えて」というのは、分かり易く書こうと思えば書けるのだが、それでは彼の世界観も反映されず物足りない小説になるだけでなくまた、上巻だけでも100ページは少なくなってしまい読みごたえの上でもいまいちになるのではないだろうか。
ところで、一般的に多くの人に受け入れられる小説と言うのは、表現が容易ないし、回りくどくなくてすらすら読める小説であろう。なぜなら、いちいち難解な表現に立ち止まらなくてよいのでストレスを感じずに読み進めるからであるが、ではなぜ難解な表現のこの小説は一般受けしているのだろうか?
その答えはストーリー性や設定等の内部要因にあると思われる。主線は不思議なキャラ設定の両儀式という少女が、“直死の魔眼”という非日常的能力を持ち彼女にとっての敵を倒していくと言うストーリーであり、複線として登場するサブキャラもどこか一般受けしそうな特異な個性を持っている。ちょっとした性的な描写や自殺等の一般に社会的な禁忌に触れられているのもその一因だろう。また、文体は難解とはいえ作品内の描写を拾えば、映像は頭の中に割と浮かぶので、ストーリーを外れることもない。
しかし、わたしにとってはストーリー性・設定自体は好きにはなれなかった。これは、奈須氏の構成が悪いと言うよりわたしの個人的な好き嫌いのせいであろう。というのもこういったファンタジー小説は登場キャラに自分自身を投影して楽しむものだと思われるが、今作ではっきりした事のだが、あいにく、非現実的な設定に空想を働かせる程の想像力は持ち合わせていないようである。
まだ、下巻は読んでないのだがあちら読み終わったら全体的な感想を書くことにしよう。
空の境界 上 の書評
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